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目の前で父が即死

目の前で父が即死

氏名:喜屋武米子(キャンヨネコ)
当時の年齢:9歳(S10年2月生まれ)
当時の立場:国民学校3年生

【小学校四年生で戦争になる】
小学4年の途中で戦争になりました。山原に逃げなさいとの軍の命令はありましたが、山原は海と山だけで食べるものは何もないので餓死すると思いました。父は南部に詳しかったので、南部なら畑もあり、お芋を掘って食べることもできるからと考えて、南部に逃げて来ました。

【目の前で父が】
その日の朝、隠れている場所にガスをまかれたので、外に出ようとしたら、黄リン弾を落とされました。黄リン弾で私の妹は、頭と頬に黄リン弾が落ちてやけどしたので、「ここは危ないから壕を探そう」と朝早く出かけました。父が亡くなる日の朝の出来事です。父は「壕を探したけど、いい所がない」と帰ってきました。そして「今いる場所に石垣を積んで隠れよう」と言って、父は石を積もうとしていました。石を積もうとしていたその時、父の体に弾が当たったのです。まず、父のお腹に大きな爆弾の破片が当たり、手や目の上あたりがえぐられました。私は、その姿を見るのがやっとでした。父は即死でした。小さな穴に父の亡きがらを置いて、石を積んで埋葬してようねと話しました。

【兵隊の最後の言葉】
ガスがまかれた日のことですが、海に面した岩陰に多くの日本の兵隊たちが隠れていました。隠れていた兵隊はみんな、米軍の攻撃でやけどを負ったり、焼けただれて亡くなった人もいました。鼻水をすすりながら「お腹がすいた、お腹がすいた」と言う小さな少年兵がいたのですが、父はその子が気になり、その子を探したのですが見つからなかったので、「砲弾で焼けて亡くなったのかもしれない」と言っていると、体が火に包まれた別の少年兵が飛び出してきました。その少年は、少し離れた所においてある自分たちの水桶まで走っていって、自分の体にその水をかけたのです。体全体の皮膚がただれ、皮がたれさがり、すぐに顔も腫れ、目も見えなくなっていました。そして、北の方に向かってその少年兵は「お父さん、お母さん、達者でお暮らし下さい」と祈っていました。「天皇陛下万歳」とは言わずに、お父さんとお母さんへの祈りの言葉でした。


【次に泣いたら殺しなさい】
摩文仁での出来事です。3つ下の妹がとても泣き虫で、お腹がすいていたのでしょう、ずっと泣いていました。すると、見たことのない兵隊が銃を持ってやってきて、父に「次、この子が泣いたら、この銃で殺しなさい。鳴き声を聞いて相手に攻撃されたら、みんなが迷惑するから」と銃を置いて行きました。また、別の兵隊が、手榴弾を一個持って来て、私の叔父に「敵が来たら、これで子ども達を守りなさい」と言って手榴弾を置いていったので、兵隊が帰った後、「たった一個の手榴弾で守れるわけがないのに、自決しろということなのか」と怒りました。すると、他の兵隊が来て「戦争は兵隊と兵隊の戦いだから、住民に害をあたえることはない。だから住民が死ぬ必要もない。負けたら捕虜になりなさい」と言って帰っていったそうです。人はそれぞれ、悪い人もいれば、良い人もいると思いました。