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沖縄戦の戦闘経緯→慶良間列島・沖縄本島上陸→本島北部・伊江島の戦闘→ 本島中部・首里の戦闘→本島南部の戦闘→大東諸島の戦闘→宮古・八重山の戦闘
大東島(だいとうじま)は沖縄の防衛強化のための前進基地として各島に日本守備軍が配備され飛行場や自然壕などを利用した数多くの陣地が築かれた。1945(昭和20)年3月頃から米軍の激しい艦砲射撃や空襲があり、大きな被害を受けている。島の人々の多くは沖縄本島や県外に疎開させられた。 小さな島のため食糧は不足し、外部からの補給も断たれ、人々は飢餓に苦しんだ。 津堅島(つけんじま)の戦闘 津堅島は米軍の中城湾侵入に備えた中城湾要塞の重砲陣地として1941(昭和16)年夏から、島民総動員で陣地づくりが行われた。沖縄戦では日本守備軍約160名が配備され、それに防衛隊約40名、島民女子約30名が加わっている。 米軍は艦砲射撃と空襲を行いながら、3回にわたる上陸作戦を実施した。激しい攻防戦が展開されたが、1945(昭和20)年4月下旬には全島が占領された。