戦場にひとり取り残されて
さん
1935(昭和10)年生まれ
那覇市出身
疎開せずに家族と避難
戦争中、私は国民学校の4年生でした。私は、兄と一緒に熊本へ学童疎開に行く予定でした。けれども、校医の検診で胃腸がおかしいということで、疎開は不許可になりました。兄が「自分1人だけでは行かない」と駄々をこねたので、代わりにすぐ上の兄とその上の姉の2人が学童疎開に行きました。私は沖縄に残りました。私は、9名兄弟姉妹の6番目です。
父は薬局で働いていましたが、戦争が始まる約2年前に薬局を辞め、沖縄刑務所に勤めました。当時は軍から物資が統制され、自由に物が買えなかったそうです。沖縄戦が始まると、刑務所は解放されましたが、家に帰らなかった収容者は職員と一緒に避難しました。1945(昭和20)年5月頃、米軍がこちらに進攻して来ると、私たちは那覇の楚辺にある刑務所近くの壕に避難しました。そこに日本兵がやって来て、「ここは自分たちが使うから出なさい」と言われました。「ここは刑務所の壕として私たちが掘ったものだ」と答えると、「(言うことを)聞かないのか」と日本兵が軍刀を抜いたので、やむなく壕から出ていきました。
南部へ避難
私たちは、南部に続く真玉橋に向かいましたが、その橋も破壊されていました。私たちが畦道を歩いている時に、近くに艦砲弾が落ち、その破片が飛んできました。父の様子がおかしいので、母と一緒に様子を見に行くと、父は砲弾の破片で顔がえぐられて倒れていました。そして、しばらくして亡くなりました。その後は、刑務所の人たちとは別れて、私たちは家族だけで避難しました。父が亡くなってしまったので、みんな泣きながら避難しました。
そのあと、私たちは八重瀬の高良集落に着きました。壕を探してもなかなか見つからず、やっと探し当てて避難していると、そこでも友軍(日本軍)から「この壕は我々が使うから出なさい」と言われ、壕から追い出されました。その後は、集落の公民館のようなムラヤーに家族で隠れていました。夜の8時頃、そのムラヤーにも砲弾が撃ち込まれ、戦車隊の若い兵士たち7~8名に砲弾が直撃しました。その兵士たちは、腸(はらわた)が飛び出たりと、もの凄い形相でした。私は、自分の右膝辺りが熱くなっているのを感じました。それで触ってみると、手にはべっとりと血がついていました。これが砲弾の破片が貫通したときの傷痕です。
避難していたムラヤーも壊されてしまったので、私たちは豚小屋に入れてもらいました。私が夜中に傷が痛いと言って泣いていたら、そこにいた14~15歳くらいの青年が、私を担いで八重瀬岳にいた部隊の所へ連れて行ってくれました。そこでは、傷を消毒してもらいました。翌日、朝起きてみると、傷口にはウジが湧いていました。祖母も砲弾の破片が貫通して、出血多量で亡くなりました。1番末の3歳の弟は、破傷風で亡くなりました。掩体(えんたい)壕の近くに穴を掘り、祖母と弟をそこに埋めて、家の戸を穴の上に被せて土をかけました。私と弟が母に、「ここは、日本軍の陣地がある与座岳が目の前で危ないから、もっと遠くへ行こう」と言っても、母にはその気力がありませんでした。母にとっては、自分の母親(祖母)や夫、1番末の子どもも亡くなっているので、今更生きていてもしょうがないと思っていたのでしょう。その時は母も怪我をしていたので、壕の中で横になっていましたが、そのあと皆で高良集落から糸満の与座までゆっくり歩いて行きました。
与座集落には与座ガーという湧き水があり、水が豊富な所でした。近くにあった壕の入口付近に、私たち家族4名は避難していました。そこに、いきなり米兵が壕の上から銃を突きつけました。突然のことだったので、私たちはどうしていいのか分かりませんでした。米兵の中には日系2世の人がいて、「何もしないから壕から出てきなさい」と呼びかけていました。それに応じて、壕の奥にいた人たちが何名か出て行ったので、私も一緒に壕から外に出ました。外に出ると、10名くらいずつ整列させられて、糸満の大きな十字路まで歩かされました。壕では、8歳の弟と5歳の妹が母と身を寄せ合っていました。私はいつの間にか家族と離れ、無意識に壕の外に出ていました。あとになって思うと、米兵に身振りでも何でも合図をして、どうにかして壕の中にいた家族を助ける方法はなかったかと後悔しました。
LSTに乗せられて
この辺で捕虜になった人たちは、今の名城ビーチから沖へ向かい、停泊していたLST(戦車揚陸艦)に乗せられました。LSTは船首が観音開きになり、上陸用舟艇がそのまま中に入りました。船の船首部分が口のように開いて、変な船だと私は思いました。また、「捕虜を沖に連れて行き、溺死させるというのは本当だろう」と思いました。しかし、船の中に入っていくとデッキがあり、そこには米兵がいていろんな物を投げ与えるので、私たちはそれを取って食べました。私は、「珍しいな。今から殺そうとする人にこんな風に物をあげるはずがない」と思いました。その頃から、米軍が殺すというのは本当ではないかもしれないと思うようになりました。
到着後は、現北中城村の比嘉・島袋に連れて行かれ、私は怪我の手当をしてもらい、2~3日の間そこで過ごしました。その後は 車に乗せられて、宜野座の病院に連れて行かれました。その病院は、30~40メートルくらいの長屋でした。病院から出るときには、みんな自分の知っている人はいないかと人捜しをしていました。戦争でみんな別れたままになっていたので、「もしかすると、知り合いや親戚に会えるかもしれない」と思って私も探しました。すると、たまたまそこに親戚がいました。それは首里の当蔵の人で親戚筋にあたり、私はその人から「私の家に来なさい」と言われました。その人は、戦争で孫を3名とも亡くしていました。それで、孤児となった私は、その人の所に行かされました。そこで何日か過ごしていると、もっと近い親戚の人がいたので、その人から「私の所へ来なさい」と言われ、今度はそこに行きました。その人は、父の従姉妹にあたる叔母で、私の母と同じ位の年齢でした。
親戚に引き取られて
引き取られた後は、同じ宜野座の惣慶(収容所)で過ごしました。惣慶の収容所は海の側にありました。当時は、食べることしか考えていませんでした。アメリカ軍からの配給だけでは足りないので、野草やよもぎ、セリなどそういうものを採ったりしました。それから、アコウ(方言名ウスク)の芽も食べました。ウスクの芽は、湯がいて配給の缶詰を混ぜて食べました。そのような時代でした。
マラリアに罹患
私は惣慶の集落の人たちに連れられ、4~5名一緒に米軍のゴミ捨て場に行きました。夜になってもすぐには帰れないので、廃材を集めて小屋を作り、そこに1泊しました。翌日は、新しくきたゴミの中から使えそうな物を持ち帰りました。それまでは良かったのですが、その晩からマラリアに罹りました。もの凄く寒くて体が震え出しました。私を引き取ってくれたお婆さんと叔母が2人がかりで、私の身体を上から押さえても、それでも震えが止まりませんでした。その後、キニーネという黄色い薬を飲んだら2日くらいで治りました。
当時、惣慶の学校では松の木に黒板を吊して、そこに先生が何かを書いて教えるという程度でした。その先生が、後に私が首里高校に進学した時の担任の先生でした。英語の先生で、高校で再会した時にはとても驚きました。惣慶の学校に来ていた生徒は、4~5名でした。また、収容所の中央には配給所があり、メリケン粉(小麦粉)の袋などで縫ったパンツやシャツなどを配っていました。惣慶から規格住宅が造られた首里汀良町に来てみると、そこには母の妹(叔母)がいたので、今度はその叔母に私は引き取られました。
沖縄本島から久米島へ
ある日、そこに保久村先生がやって来ました。戦前、彼は男子師範学校の学生の頃、私の家に下宿していました。彼は、風の便りで私1人だけが生き残っていると聞いて、訪ねてきました。ちょうど、久米島の先生方の給料を受け取りに、代表として沖縄本島に来ていたのでした。先生は、私の兄とは歳が近くお互い良く知っていました。私とは歳が離れていたのですが、彼のことはよく聞いていました。彼は私に「久米島は戦争の被害が少なく食べ物もあるから、君さえよければ久米島に連れて行くよ」と言いました。私たちは、近くに住む親戚の長老に来てもらい、相談しました。私は両親も兄弟も戦争で失ったので、どこで暮らすのも一緒だと思い、「(行っても)いいですよ」と答えました。それで、「あなたが行きたいなら行ってもよい」ということになり、叔母も親戚のお婆さんに確認し、承諾してくれました。
私たちはその日のうちに首里から糸満まで歩いて行き、船に乗って久米島に行きました。久米島(旧具志川村)の鳥島で船を下り、そこから歩いて20分くらいで先生の自宅がある仲地集落に着きました。そして、私は大岳小学校の5学年に編入しました。小学校5年から中学校1年の1学期まで、私は久米島にいました。2ヵ年半、そこでお世話になりました。私は朝から草刈りをしていたので、他の友達のようにクラブ活動や自治会には参加できませんでした。家庭がしっかりしている所の子どもは、放課後など昼間から先輩に教えてもらいながら勉強をしていました。私には、その子達と同じように勉強する余裕はありませんでした。保久村先生の奥さんも学校の先生で、また妹さんは幼稚園の先生だったので、家には学校の先生が3名いました。そのような家庭でお世話になっていたので、私は戦争孤児であってもやけになったり、どうにでもなれというような気持ちにはなりませんでした。本当の家族がいなくなったことを考えている暇はありませんでした。目の前のやるべき事に一生懸命で、他の事は何も考えられませんでした。ちょうど私が小学校6年生の時に、6・3・3制の学校制度ができました。小学6年の卒業と同時に、私は新制中学校の1年生になりました。私は、久米島の具志川中学校の3期生でした。
兄姉を探しに
中学1年の夏休みに、私は沖縄本島に戻りました。戦前に、学童疎開に行った兄姉や、予科練(海軍飛行予科訓練生)に行った兄の消息も分からなかったので、安否を確認するために沖縄本島の親戚の家に行きました。その親戚から、「保久村さんはあなたの親戚ではない。彼は師範学校の時にあなたの家に下宿していただけだ。私たちはあなたの近い親戚だから、私たちがきちんと世話をするので、久米島には帰らずここにいなさい」と引き留められました。それで、首里中学校1年の2学期から首里高校2年までの間、私は親戚の家で過ごしました。高校3年に進級する時に、兄が住む長崎に行きました。
兄は刑務官をしていました。予科練を出た後、北支(中国北部)の戦地に行き、戦後戻って来ていました。高校2年を終えて兄の元へ行き、長崎西高校へ編入学しました。当時は勉強をするどころではなく、学力が落ちてしまっていたため、3年次に編入する年齢でしたが学力が足りず、2年次に編入しました。結局、私は高校に4年間通いました。当時の銀行などは、両親が健在で財産もないと就職できませんでした。戦争で両親を失っている私は、最初から就職もできないのかと、そのことで先生と口論をしたことがありました。そのようなことがあり、高校卒業後は毎日、職業安定所に通っていました。
その後、長崎県交通部のバスの整備工場に就職しました。最初から板金関係の電気溶接やガス溶接などの仕事だったので、その結果、私は腰を痛めてしまいました。2ヵ月くらい入院しても、良くなりませんでした。兄から「この調子ではダメだから、自衛隊に入って体を鍛えてきなさい」と言われ、私は腰を押さえながら入隊しました。2ヵ年の間に体も丈夫になり、自衛隊を辞めた後には自衛隊で出会った友達3名と一緒に大阪へ行きました。「大阪だったら仕事をしながら夜間の大学にも通えるだろう」と、私はそう思って大阪に行ったのですが、結局、仕事でまた腰を痛めてしまいました。その後は、住み込みで新聞配達の仕事をしました。道頓堀近くの千日前で、朝日新聞の配達をしていました。首里高校が甲子園に出場した時は、私もその試合を見に行きました。大阪で働きながらお金を貯めて、夜間大学に通うことも考えていましたが果たせず、このままではいけないと思い、長崎の兄のところに戻りました。その兄に「沖縄に戻って、昔住んでいた屋敷を整理してみてはどうか。転地療養で沖縄の方が暖かいし、体の方も良くなるはずだから」と言われたので、私は沖縄に帰ってきました。
沖縄に戻り、その後は那覇軍港で働きました。アメリカ軍の船から積み荷を降ろす仕事を、3年くらい続けました。あるアメリカ人から、こんなことを聞かれたことがあります。「あなたは、去った戦争で両親や兄弟もたくさん亡くしているというのに、アメリカ人がいる基地でよく働けるね」と言われました。私はこのように考えて答えました。確かに最初は、戦争が終わって久米島にいた3~4年の間は、親たちの仇を取ったら自分は死んでもいいという思いがありました。けれども、次第に気持ちが変化していき、考えてみるとアメリカ人の1人ひとりが悪いのではなく、国と国との争いだったのだからと理解するようになりました。「これは国と国の争いだから、個人に対して恨んだりするということはないよ」と私がそう答えると、その人は理解してくれました。
久場里重さんは、35歳までの10年間、軍作業の仕事を続けました。その後は刑務官となって15年にわたり、米軍の軍人・軍属をはじめとする外国人の収容者に関わる職務にも長年携わりました。
疎開せずに家族と避難
戦争中、私は国民学校の4年生でした。私は、兄と一緒に熊本へ学童疎開に行く予定でした。けれども、校医の検診で胃腸がおかしいということで、疎開は不許可になりました。兄が「自分1人だけでは行かない」と駄々をこねたので、代わりにすぐ上の兄とその上の姉の2人が学童疎開に行きました。私は沖縄に残りました。私は、9名兄弟姉妹の6番目です。
父は薬局で働いていましたが、戦争が始まる約2年前に薬局を辞め、沖縄刑務所に勤めました。当時は軍から物資が統制され、自由に物が買えなかったそうです。沖縄戦が始まると、刑務所は解放されましたが、家に帰らなかった収容者は職員と一緒に避難しました。1945(昭和20)年5月頃、米軍がこちらに進攻して来ると、私たちは那覇の楚辺にある刑務所近くの壕に避難しました。そこに日本兵がやって来て、「ここは自分たちが使うから出なさい」と言われました。「ここは刑務所の壕として私たちが掘ったものだ」と答えると、「(言うことを)聞かないのか」と日本兵が軍刀を抜いたので、やむなく壕から出ていきました。
南部へ避難
私たちは、南部に続く真玉橋に向かいましたが、その橋も破壊されていました。私たちが畦道を歩いている時に、近くに艦砲弾が落ち、その破片が飛んできました。父の様子がおかしいので、母と一緒に様子を見に行くと、父は砲弾の破片で顔がえぐられて倒れていました。そして、しばらくして亡くなりました。その後は、刑務所の人たちとは別れて、私たちは家族だけで避難しました。父が亡くなってしまったので、みんな泣きながら避難しました。
そのあと、私たちは八重瀬の高良集落に着きました。壕を探してもなかなか見つからず、やっと探し当てて避難していると、そこでも友軍(日本軍)から「この壕は我々が使うから出なさい」と言われ、壕から追い出されました。その後は、集落の公民館のようなムラヤーに家族で隠れていました。夜の8時頃、そのムラヤーにも砲弾が撃ち込まれ、戦車隊の若い兵士たち7~8名に砲弾が直撃しました。その兵士たちは、腸(はらわた)が飛び出たりと、もの凄い形相でした。私は、自分の右膝辺りが熱くなっているのを感じました。それで触ってみると、手にはべっとりと血がついていました。これが砲弾の破片が貫通したときの傷痕です。
避難していたムラヤーも壊されてしまったので、私たちは豚小屋に入れてもらいました。私が夜中に傷が痛いと言って泣いていたら、そこにいた14~15歳くらいの青年が、私を担いで八重瀬岳にいた部隊の所へ連れて行ってくれました。そこでは、傷を消毒してもらいました。翌日、朝起きてみると、傷口にはウジが湧いていました。祖母も砲弾の破片が貫通して、出血多量で亡くなりました。1番末の3歳の弟は、破傷風で亡くなりました。掩体(えんたい)壕の近くに穴を掘り、祖母と弟をそこに埋めて、家の戸を穴の上に被せて土をかけました。私と弟が母に、「ここは、日本軍の陣地がある与座岳が目の前で危ないから、もっと遠くへ行こう」と言っても、母にはその気力がありませんでした。母にとっては、自分の母親(祖母)や夫、1番末の子どもも亡くなっているので、今更生きていてもしょうがないと思っていたのでしょう。その時は母も怪我をしていたので、壕の中で横になっていましたが、そのあと皆で高良集落から糸満の与座までゆっくり歩いて行きました。
与座集落には与座ガーという湧き水があり、水が豊富な所でした。近くにあった壕の入口付近に、私たち家族4名は避難していました。そこに、いきなり米兵が壕の上から銃を突きつけました。突然のことだったので、私たちはどうしていいのか分かりませんでした。米兵の中には日系2世の人がいて、「何もしないから壕から出てきなさい」と呼びかけていました。それに応じて、壕の奥にいた人たちが何名か出て行ったので、私も一緒に壕から外に出ました。外に出ると、10名くらいずつ整列させられて、糸満の大きな十字路まで歩かされました。壕では、8歳の弟と5歳の妹が母と身を寄せ合っていました。私はいつの間にか家族と離れ、無意識に壕の外に出ていました。あとになって思うと、米兵に身振りでも何でも合図をして、どうにかして壕の中にいた家族を助ける方法はなかったかと後悔しました。
LSTに乗せられて
この辺で捕虜になった人たちは、今の名城ビーチから沖へ向かい、停泊していたLST(戦車揚陸艦)に乗せられました。LSTは船首が観音開きになり、上陸用舟艇がそのまま中に入りました。船の船首部分が口のように開いて、変な船だと私は思いました。また、「捕虜を沖に連れて行き、溺死させるというのは本当だろう」と思いました。しかし、船の中に入っていくとデッキがあり、そこには米兵がいていろんな物を投げ与えるので、私たちはそれを取って食べました。私は、「珍しいな。今から殺そうとする人にこんな風に物をあげるはずがない」と思いました。その頃から、米軍が殺すというのは本当ではないかもしれないと思うようになりました。
到着後は、現北中城村の比嘉・島袋に連れて行かれ、私は怪我の手当をしてもらい、2~3日の間そこで過ごしました。その後は 車に乗せられて、宜野座の病院に連れて行かれました。その病院は、30~40メートルくらいの長屋でした。病院から出るときには、みんな自分の知っている人はいないかと人捜しをしていました。戦争でみんな別れたままになっていたので、「もしかすると、知り合いや親戚に会えるかもしれない」と思って私も探しました。すると、たまたまそこに親戚がいました。それは首里の当蔵の人で親戚筋にあたり、私はその人から「私の家に来なさい」と言われました。その人は、戦争で孫を3名とも亡くしていました。それで、孤児となった私は、その人の所に行かされました。そこで何日か過ごしていると、もっと近い親戚の人がいたので、その人から「私の所へ来なさい」と言われ、今度はそこに行きました。その人は、父の従姉妹にあたる叔母で、私の母と同じ位の年齢でした。
親戚に引き取られて
引き取られた後は、同じ宜野座の惣慶(収容所)で過ごしました。惣慶の収容所は海の側にありました。当時は、食べることしか考えていませんでした。アメリカ軍からの配給だけでは足りないので、野草やよもぎ、セリなどそういうものを採ったりしました。それから、アコウ(方言名ウスク)の芽も食べました。ウスクの芽は、湯がいて配給の缶詰を混ぜて食べました。そのような時代でした。
マラリアに罹患
私は惣慶の集落の人たちに連れられ、4~5名一緒に米軍のゴミ捨て場に行きました。夜になってもすぐには帰れないので、廃材を集めて小屋を作り、そこに1泊しました。翌日は、新しくきたゴミの中から使えそうな物を持ち帰りました。それまでは良かったのですが、その晩からマラリアに罹りました。もの凄く寒くて体が震え出しました。私を引き取ってくれたお婆さんと叔母が2人がかりで、私の身体を上から押さえても、それでも震えが止まりませんでした。その後、キニーネという黄色い薬を飲んだら2日くらいで治りました。
当時、惣慶の学校では松の木に黒板を吊して、そこに先生が何かを書いて教えるという程度でした。その先生が、後に私が首里高校に進学した時の担任の先生でした。英語の先生で、高校で再会した時にはとても驚きました。惣慶の学校に来ていた生徒は、4~5名でした。また、収容所の中央には配給所があり、メリケン粉(小麦粉)の袋などで縫ったパンツやシャツなどを配っていました。惣慶から規格住宅が造られた首里汀良町に来てみると、そこには母の妹(叔母)がいたので、今度はその叔母に私は引き取られました。
沖縄本島から久米島へ
ある日、そこに保久村先生がやって来ました。戦前、彼は男子師範学校の学生の頃、私の家に下宿していました。彼は、風の便りで私1人だけが生き残っていると聞いて、訪ねてきました。ちょうど、久米島の先生方の給料を受け取りに、代表として沖縄本島に来ていたのでした。先生は、私の兄とは歳が近くお互い良く知っていました。私とは歳が離れていたのですが、彼のことはよく聞いていました。彼は私に「久米島は戦争の被害が少なく食べ物もあるから、君さえよければ久米島に連れて行くよ」と言いました。私たちは、近くに住む親戚の長老に来てもらい、相談しました。私は両親も兄弟も戦争で失ったので、どこで暮らすのも一緒だと思い、「(行っても)いいですよ」と答えました。それで、「あなたが行きたいなら行ってもよい」ということになり、叔母も親戚のお婆さんに確認し、承諾してくれました。
私たちはその日のうちに首里から糸満まで歩いて行き、船に乗って久米島に行きました。久米島(旧具志川村)の鳥島で船を下り、そこから歩いて20分くらいで先生の自宅がある仲地集落に着きました。そして、私は大岳小学校の5学年に編入しました。小学校5年から中学校1年の1学期まで、私は久米島にいました。2ヵ年半、そこでお世話になりました。私は朝から草刈りをしていたので、他の友達のようにクラブ活動や自治会には参加できませんでした。家庭がしっかりしている所の子どもは、放課後など昼間から先輩に教えてもらいながら勉強をしていました。私には、その子達と同じように勉強する余裕はありませんでした。保久村先生の奥さんも学校の先生で、また妹さんは幼稚園の先生だったので、家には学校の先生が3名いました。そのような家庭でお世話になっていたので、私は戦争孤児であってもやけになったり、どうにでもなれというような気持ちにはなりませんでした。本当の家族がいなくなったことを考えている暇はありませんでした。目の前のやるべき事に一生懸命で、他の事は何も考えられませんでした。ちょうど私が小学校6年生の時に、6・3・3制の学校制度ができました。小学6年の卒業と同時に、私は新制中学校の1年生になりました。私は、久米島の具志川中学校の3期生でした。
兄姉を探しに
中学1年の夏休みに、私は沖縄本島に戻りました。戦前に、学童疎開に行った兄姉や、予科練(海軍飛行予科訓練生)に行った兄の消息も分からなかったので、安否を確認するために沖縄本島の親戚の家に行きました。その親戚から、「保久村さんはあなたの親戚ではない。彼は師範学校の時にあなたの家に下宿していただけだ。私たちはあなたの近い親戚だから、私たちがきちんと世話をするので、久米島には帰らずここにいなさい」と引き留められました。それで、首里中学校1年の2学期から首里高校2年までの間、私は親戚の家で過ごしました。高校3年に進級する時に、兄が住む長崎に行きました。
兄は刑務官をしていました。予科練を出た後、北支(中国北部)の戦地に行き、戦後戻って来ていました。高校2年を終えて兄の元へ行き、長崎西高校へ編入学しました。当時は勉強をするどころではなく、学力が落ちてしまっていたため、3年次に編入する年齢でしたが学力が足りず、2年次に編入しました。結局、私は高校に4年間通いました。当時の銀行などは、両親が健在で財産もないと就職できませんでした。戦争で両親を失っている私は、最初から就職もできないのかと、そのことで先生と口論をしたことがありました。そのようなことがあり、高校卒業後は毎日、職業安定所に通っていました。
その後、長崎県交通部のバスの整備工場に就職しました。最初から板金関係の電気溶接やガス溶接などの仕事だったので、その結果、私は腰を痛めてしまいました。2ヵ月くらい入院しても、良くなりませんでした。兄から「この調子ではダメだから、自衛隊に入って体を鍛えてきなさい」と言われ、私は腰を押さえながら入隊しました。2ヵ年の間に体も丈夫になり、自衛隊を辞めた後には自衛隊で出会った友達3名と一緒に大阪へ行きました。「大阪だったら仕事をしながら夜間の大学にも通えるだろう」と、私はそう思って大阪に行ったのですが、結局、仕事でまた腰を痛めてしまいました。その後は、住み込みで新聞配達の仕事をしました。道頓堀近くの千日前で、朝日新聞の配達をしていました。首里高校が甲子園に出場した時は、私もその試合を見に行きました。大阪で働きながらお金を貯めて、夜間大学に通うことも考えていましたが果たせず、このままではいけないと思い、長崎の兄のところに戻りました。その兄に「沖縄に戻って、昔住んでいた屋敷を整理してみてはどうか。転地療養で沖縄の方が暖かいし、体の方も良くなるはずだから」と言われたので、私は沖縄に帰ってきました。
沖縄に戻り、その後は那覇軍港で働きました。アメリカ軍の船から積み荷を降ろす仕事を、3年くらい続けました。あるアメリカ人から、こんなことを聞かれたことがあります。「あなたは、去った戦争で両親や兄弟もたくさん亡くしているというのに、アメリカ人がいる基地でよく働けるね」と言われました。私はこのように考えて答えました。確かに最初は、戦争が終わって久米島にいた3~4年の間は、親たちの仇を取ったら自分は死んでもいいという思いがありました。けれども、次第に気持ちが変化していき、考えてみるとアメリカ人の1人ひとりが悪いのではなく、国と国との争いだったのだからと理解するようになりました。「これは国と国の争いだから、個人に対して恨んだりするということはないよ」と私がそう答えると、その人は理解してくれました。
久場里重さんは、35歳までの10年間、軍作業の仕事を続けました。その後は刑務官となって15年にわたり、米軍の軍人・軍属をはじめとする外国人の収容者に関わる職務にも長年携わりました。