「平安座市」と私の戦後
さん
1929(昭和4)年生まれ
うるま市平安座出身
避難途中に捕虜となる
北部から南への避難途中、石川で足止めされました。当時、石川はすでに住民の捕虜収容所になっていました。僕たちのような15~16歳の少年は、米軍に警戒される年齢でした。少年兵だといって警戒されました。それで、米軍に見つからないよう逃げようとしました。昔は、ガンヤ(龕屋)と呼ばれるところがありました。いわゆる遺体を運ぶ龕(棺)を保管する場所のことです。それが石川にもあり、身を隠すには良い場所だと思ってそこに隠れていました。ところが、逆の結果でした。アメリカ兵はガンヤを珍しがって、そこへ見に来たのです。隠れたつもりが逆に見つかってしまい、大変困ってしまいました。結局、隠れることができずにガンヤの外に引っ張り出され、もう少しで金武の屋嘉にある捕虜収容所に連行されるところでした。けれども、「少年ではなくまだ子どもだ」と判断されたので、石川の少年収容所から家族の元に帰されました。
しばらくして 1945(昭和20)年の5月に入ると、私の父が米軍側と交渉して、ジープで石川から屋慶名まで連れて行ってもらいました。
平安座島の生活
そこからは歩いて行きました。平安座島までたどり着いたのは、5月頃でした。その頃、平安座島は、石川と同様に住民の収容所になっていました。おそらく、島には米兵が120~130名はいたと思います。昔の小中学校の敷地には、米軍が駐屯していました。米軍によって、いつの間にか平安座集落は「平安座市」になり、「平安座市長」も任命されました。当時、平安座島には8,000名くらいの人がいたと思います。近隣の宮城島や伊計島の住民も収容されていました。浜比嘉島の島民は、浜比嘉島だけに収容されていました。平安座島の収容所には、当然、対岸の屋慶名の住民もいました。与勝半島一帯から住民が収容されていました。那覇から島に避難していた方々も、大変な思いをしていました。食料もなく、避難民は狭い場所に詰め込まれて生活していました。平安座島は畑も少なく農作物を作る場所もないので、食料には大変困っていました。
当時は、米軍からの配給物資がありました。当時は占領下で、流通するお金はなく、米軍の配給所から配給がありました。配給の時には、家族ごとに名簿が作られました。その名簿によって、配給の数量が決まりました。1人あたりいくらという数量が決まっていました。配給所からは物資として、メリケン粉(小麦粉)やお米、缶詰などが各家庭に配給されました。当時の状況では、土地の生産性はありません。農作物などの作るものがありませんでした。みんな米軍からの配給で生活をしていました。食料は、それだけでは十分ではありませんでした。
当時の忘れてはならない出来事があります。対岸の屋慶名やその周辺一帯には、戦火を免れたきれいな家がありました。昔の家はみんな木造なので、瓦屋根の家を解体し、それを平安座島に建てようと思ったのでしょう。力のある数名で木造の建物を解体して、それを運搬して来ました。当時、米軍が任命した警察官は「アカボウシー(赤帽子)」と呼ばれ、鉄兜の赤帽子をかぶっているのは米軍によって任命された民間の警察官でした。解体してきた家を建てようとした人たちは、その警察官に見つかってしまいました。そして、当時の刑務所は「金網」と呼ばれていましたが、金網で囲われたその場所に留置されてしまいました。
当時は漁業もできませんでした。人々はみんな捕虜になっていましたから、拘束されて自由に活動ができませんでした。戦時中、日本兵には「斬り込み隊」というものがあり、夜間に米軍に対して斬り込み攻撃を行うというようなものでした。捕虜になった住民を自由にさせると「斬り込み隊」になりかねないということで、漁業もできない。農業も自由にできない。そのように自由が奪われていました。ただ幸いなことに、平安座島には日本兵はいませんでした。もし日本兵がいたら、大騒動になっていました。この地域は、米軍が統治するには治めやすい所だったのではないかと思います。対岸の屋慶名から坂道を上って行くと、そこには「チャイナ部隊」がいました。中国の蒋介石の部隊が駐屯していましたが、その理由はわかりません。近くの饒辺(よへん)辺りには、ナイキミサイル基地がありました。
前原高校での学校生活
私は戦前の旧制中学の学生でしたから、前原高校に編入学して高校に通いました。当時、学校というのは名前だけで、教科書もなければ机や椅子もなく、先生方も高校の正式な先生というよりは、昔の小学校高等科の先生や師範学校を出た先生たちでした。米軍が占領していた時代なので、英語だけはしっかり勉強できたと思います。英語の先生だけは、きちんと英語を学んだ先生だったのではないかと思います。戦後は教員不足で、他は正規の高校の先生だったかどうかは分かりません。そのような時代でしたから、もちろん制服もありませんでした。
学校では何をしたかというと、音楽の先生が歌を教えたり、簡単な運動をさせられたりと、当時は教育らしい教育ができない状況でした。黒板もなければ、机や椅子などもきちんと整備されていませんでした。ただ米軍の政策として「学校ではとにかく学生を集めて教育をしなさい」という指示が、おそらくあったのだと思います。そのような状況が、1946(昭和21)年の中頃まで続きました。
拳銃紛失事件
昭和21(1946)年になると、今の与勝中学校がある場所には米軍のコンセット(カマボコ型兵舎)の宿舎があったので、その場所に学校が移転しました。そこで大きな問題が起こりました。米軍が移動した後の施設だったので、コンセットの中に拳銃が残っていました。ある生徒が、珍しがってその拳銃を隠し持っていました。当時、学生の寄宿舎はテント小屋で、伊計島や津堅島など周辺離島の生徒はその寄宿舎にいました。近くの人でも外部から来た人は、ほとんど寄宿舎に入っていました。寄宿舎は米軍のテント小屋で、5名1部屋くらいの広さで女性寮と男性寮がありました。時々、女性寮には米兵が悪戯しようとやって来ることがありました。その時に、拳銃を拾った男子生徒が拳銃で威嚇をしたのです。すると翌日、米軍の教育担当者がやって来て、「その拳銃を今すぐに返さないと学校を閉鎖する」ということになりました。全校生徒が集められ、「拳銃は誰が持っているのか」と訊かれました。そのように訊かれても、誰も何も言いませんでした。答えると大変なことになるので、お互いに言いませんでした。拳銃を持っていた男子生徒はその話を聞いて、拳銃をセクションベースという学校の裏側の崖下に捨てたのです。あとで「そこに拳銃を捨てました」と、その生徒は自白をしました。それで、全校生徒がその崖下に下ろされ、「拳銃を見つけてこないと学校を閉鎖する」といわれて、結局2日がかりで探しました。拳銃を探し出して返したので、学校は閉鎖されませんでした。
当時の学校や寄宿舎も米軍の支援物資だけでした。食事では、「団子汁」といってメリケン粉で作った団子を汁の中に入れて食べました。それで飢えをしのいだような時代でした。
卒業後の就職について
前原高校の第1期生が1946(昭和21)年9月に卒業しました。私は第2期生なので、半年遅れの1947(昭和22)年3月の卒業です。学校に入ってから高校卒業までは、1年足らずだったと思います。おそらく丸1年もなかったはずです。当時、大学受験に必要な就学年数の条件が12年でしたから、私の場合はその条件に満たず、大学には行けませんでした。しかも、当時の沖縄には大学はなく、高校が最高学府でした。そのため、高校を卒業すると小中学校の教員になれました。
当時の教員は、男性の先生は少なく女性の先生が多かったです。あの頃は給料も少なく、1948(昭和23)年頃からようやく軍票が出ました。当時の米軍発行の軍票は、「B円」と呼ばれるものでした。当時の月給は、学校の先生が220円、 校長が400円、琉球政府の行政主席が 800円~1,000円でした。そうすると、闇商売で取引されたアメリカ製のタバコには、日の丸に似たイラストの「ラッキーストライク」がありましたが、それは1ケース10個入りで値段は300円でした。「学校の先生たちは1ヶ月働いても、タバコ1ボール(カートン)の値打ちもない」と言われていました。それで、当時の先生は「シンシーグァ」(先生小)と呼ばれました。戦前は、先生に対して「三尺下がって師の影を踏まず」という時代で先生をとても尊敬したものですが、戦後は、物がない時代で待遇もそのような状況だから、「シンシーグァーター」(先生たちを小バカにした呼び方)と言われて、大変恥ずかしい思いをした時代でもありました。軍作業の仕事に行ったり、いろんな所で仕事をすると、おそらく男の人は先生方の3~4倍も稼げるので男性の先生は少なかったです。
海運業とスクラップブーム
沖縄に道路がまだきちんと整備されていない時期で、トラックがあまり走っていない戦後の約10年間くらいは海運業が盛んで、海運業ではこの平安座が中心になりました。その頃は、スクラップブームでした。「スクラップブーム」というのは、戦争中に沈没した艦船や事故を起こした戦車など、そのようなものから銅線や鉄クズを引き上げて売り、金儲けをすることでした。銅線や鉄クズなどを探し当てようとする時に、当時はそれを探すための磁気を探査する機械等がないので、海に潜って肉眼で確認して探すという方法でした。平安座島には潜りを得意とする潜水夫が何名かいたので、他よりもよく見つけていました。それを引き上げてスクラップとして売り、それがブームになった頃、フィリピンやタイなどで漁業をしてきた方々が、戦後沖縄に引き揚げてきていました。その方々は、海に詳しく海で仕事をしてきているので、その中にはスクラップを探し当ててかなり儲けた人もいました。それとは逆に、スクラップを見つけられず損をした人もいたようです。スクラップブームは3年くらい続いたと思います。
私は、ある海運会社に働きに行ったことがあります。1947~48(昭和22~23)年頃、まだ奄美大島は日本に復帰していませんでした。そして、「十島村」といって奄美大島と鹿児島の間には10の島がありました。そこに「口之島」や「中之島」があり、北緯30度線のちょうど境界が口之島でした。私も船に乗って、沖縄から口之島へ銅線を持って行ったことがあります。もちろん私は船長ではなく、船員(乗組員)として持っていきました。口之島では、物々交換として、銅線を売り材木をもらって来るという交易をしていました。当時の状況下では、言わば密航や密貿易になるけれども、その時代に法律的に処罰されたということは聞いたことがありません。いわゆる「クズ鉄」「スクラップブーム」というのは、日本では鉄類が不足し、鉱山も十分ではなかったのでしょう。それで、銅線や鉄クズを日本が買い込んでいました。それを沖縄から売り込んだのが、スクラップブームでした。当時は大変な時代でした。北緯30度(米軍占領下の国境線)沿いの口之島に、私も行きました。
離島ゆえの苦難
当時の渡し船は小さいので大変でした。対岸の藪地島と平安座島の間で、船が転覆したことがあります。乗船していた9名のうち7名が水死した海難事故でした。私の先生もその中に含まれていました。海の事故は毎年ありました。例えば、島から対岸の屋慶名まで干潮時に浅瀬を歩いて渡る時に、方向を間違えると深みにはまってしまいます。深みにはまり溺れて水死してしまうという事故が、多々ありました。
それから、島に住む妊婦さんがお産をする時も大変でした。中には難産の人もいましたから、戸板を頑強な男性たち3~4名が担ぎそこに妊婦さんを乗せて、船がない時には、潮の引き際に大急ぎで病院まで運んでいきました。搬送が無事にできた時はいいのですが、搬送がうまくいかずお産の事故が起こったこともありました。急病があった時には、船も頼りになりませんでした。潮が引くと船は出せず、船主を起こして出港の準備をしてもらうにも30分~1時間はかかり、それではもう遅いのです。それから、戸板で運ぶにしても満潮になったら大変なので、引き潮の時に急患を運んだりして大変不便な時代でした。その離島苦を解消するため、「海中道路」を作ろうという気運が高まっていきました。
若い世代に伝えたい事
今の時代は「物質中心の時代」だと思います。いわゆる心と心の繋がりが希薄だということです。それは社会においても言えますし、親子や兄弟姉妹、そして友達の関係においても言えると思います。いわゆる物を中心とする人と人との繋がりや付き合い方ではなく、心の底からの信頼関係をお互いに築くことができる若者になってほしいです。お互いに信頼関係が築けるように、相手の人格を尊重し合おうではありませんか。自分自身にないものは、相手にあるものだと思います。お互いに人格を尊重し合う社会にしていきましょう。
奥田良正光さんは、小中学校教員や与那城村議会議員をはじめ、地元与那城村の各種団体・委員会の役職を歴任しました。1974年からの2期8年間は、与那城村長を務め地域の行政に尽力されました。長年にわたる地方自治への功績により、2001年に勲五等旭日双光章を受章されました。
避難途中に捕虜となる
北部から南への避難途中、石川で足止めされました。当時、石川はすでに住民の捕虜収容所になっていました。僕たちのような15~16歳の少年は、米軍に警戒される年齢でした。少年兵だといって警戒されました。それで、米軍に見つからないよう逃げようとしました。昔は、ガンヤ(龕屋)と呼ばれるところがありました。いわゆる遺体を運ぶ龕(棺)を保管する場所のことです。それが石川にもあり、身を隠すには良い場所だと思ってそこに隠れていました。ところが、逆の結果でした。アメリカ兵はガンヤを珍しがって、そこへ見に来たのです。隠れたつもりが逆に見つかってしまい、大変困ってしまいました。結局、隠れることができずにガンヤの外に引っ張り出され、もう少しで金武の屋嘉にある捕虜収容所に連行されるところでした。けれども、「少年ではなくまだ子どもだ」と判断されたので、石川の少年収容所から家族の元に帰されました。
しばらくして 1945(昭和20)年の5月に入ると、私の父が米軍側と交渉して、ジープで石川から屋慶名まで連れて行ってもらいました。
平安座島の生活
そこからは歩いて行きました。平安座島までたどり着いたのは、5月頃でした。その頃、平安座島は、石川と同様に住民の収容所になっていました。おそらく、島には米兵が120~130名はいたと思います。昔の小中学校の敷地には、米軍が駐屯していました。米軍によって、いつの間にか平安座集落は「平安座市」になり、「平安座市長」も任命されました。当時、平安座島には8,000名くらいの人がいたと思います。近隣の宮城島や伊計島の住民も収容されていました。浜比嘉島の島民は、浜比嘉島だけに収容されていました。平安座島の収容所には、当然、対岸の屋慶名の住民もいました。与勝半島一帯から住民が収容されていました。那覇から島に避難していた方々も、大変な思いをしていました。食料もなく、避難民は狭い場所に詰め込まれて生活していました。平安座島は畑も少なく農作物を作る場所もないので、食料には大変困っていました。
当時は、米軍からの配給物資がありました。当時は占領下で、流通するお金はなく、米軍の配給所から配給がありました。配給の時には、家族ごとに名簿が作られました。その名簿によって、配給の数量が決まりました。1人あたりいくらという数量が決まっていました。配給所からは物資として、メリケン粉(小麦粉)やお米、缶詰などが各家庭に配給されました。当時の状況では、土地の生産性はありません。農作物などの作るものがありませんでした。みんな米軍からの配給で生活をしていました。食料は、それだけでは十分ではありませんでした。
当時の忘れてはならない出来事があります。対岸の屋慶名やその周辺一帯には、戦火を免れたきれいな家がありました。昔の家はみんな木造なので、瓦屋根の家を解体し、それを平安座島に建てようと思ったのでしょう。力のある数名で木造の建物を解体して、それを運搬して来ました。当時、米軍が任命した警察官は「アカボウシー(赤帽子)」と呼ばれ、鉄兜の赤帽子をかぶっているのは米軍によって任命された民間の警察官でした。解体してきた家を建てようとした人たちは、その警察官に見つかってしまいました。そして、当時の刑務所は「金網」と呼ばれていましたが、金網で囲われたその場所に留置されてしまいました。
当時は漁業もできませんでした。人々はみんな捕虜になっていましたから、拘束されて自由に活動ができませんでした。戦時中、日本兵には「斬り込み隊」というものがあり、夜間に米軍に対して斬り込み攻撃を行うというようなものでした。捕虜になった住民を自由にさせると「斬り込み隊」になりかねないということで、漁業もできない。農業も自由にできない。そのように自由が奪われていました。ただ幸いなことに、平安座島には日本兵はいませんでした。もし日本兵がいたら、大騒動になっていました。この地域は、米軍が統治するには治めやすい所だったのではないかと思います。対岸の屋慶名から坂道を上って行くと、そこには「チャイナ部隊」がいました。中国の蒋介石の部隊が駐屯していましたが、その理由はわかりません。近くの饒辺(よへん)辺りには、ナイキミサイル基地がありました。
前原高校での学校生活
私は戦前の旧制中学の学生でしたから、前原高校に編入学して高校に通いました。当時、学校というのは名前だけで、教科書もなければ机や椅子もなく、先生方も高校の正式な先生というよりは、昔の小学校高等科の先生や師範学校を出た先生たちでした。米軍が占領していた時代なので、英語だけはしっかり勉強できたと思います。英語の先生だけは、きちんと英語を学んだ先生だったのではないかと思います。戦後は教員不足で、他は正規の高校の先生だったかどうかは分かりません。そのような時代でしたから、もちろん制服もありませんでした。
学校では何をしたかというと、音楽の先生が歌を教えたり、簡単な運動をさせられたりと、当時は教育らしい教育ができない状況でした。黒板もなければ、机や椅子などもきちんと整備されていませんでした。ただ米軍の政策として「学校ではとにかく学生を集めて教育をしなさい」という指示が、おそらくあったのだと思います。そのような状況が、1946(昭和21)年の中頃まで続きました。
拳銃紛失事件
昭和21(1946)年になると、今の与勝中学校がある場所には米軍のコンセット(カマボコ型兵舎)の宿舎があったので、その場所に学校が移転しました。そこで大きな問題が起こりました。米軍が移動した後の施設だったので、コンセットの中に拳銃が残っていました。ある生徒が、珍しがってその拳銃を隠し持っていました。当時、学生の寄宿舎はテント小屋で、伊計島や津堅島など周辺離島の生徒はその寄宿舎にいました。近くの人でも外部から来た人は、ほとんど寄宿舎に入っていました。寄宿舎は米軍のテント小屋で、5名1部屋くらいの広さで女性寮と男性寮がありました。時々、女性寮には米兵が悪戯しようとやって来ることがありました。その時に、拳銃を拾った男子生徒が拳銃で威嚇をしたのです。すると翌日、米軍の教育担当者がやって来て、「その拳銃を今すぐに返さないと学校を閉鎖する」ということになりました。全校生徒が集められ、「拳銃は誰が持っているのか」と訊かれました。そのように訊かれても、誰も何も言いませんでした。答えると大変なことになるので、お互いに言いませんでした。拳銃を持っていた男子生徒はその話を聞いて、拳銃をセクションベースという学校の裏側の崖下に捨てたのです。あとで「そこに拳銃を捨てました」と、その生徒は自白をしました。それで、全校生徒がその崖下に下ろされ、「拳銃を見つけてこないと学校を閉鎖する」といわれて、結局2日がかりで探しました。拳銃を探し出して返したので、学校は閉鎖されませんでした。
当時の学校や寄宿舎も米軍の支援物資だけでした。食事では、「団子汁」といってメリケン粉で作った団子を汁の中に入れて食べました。それで飢えをしのいだような時代でした。
卒業後の就職について
前原高校の第1期生が1946(昭和21)年9月に卒業しました。私は第2期生なので、半年遅れの1947(昭和22)年3月の卒業です。学校に入ってから高校卒業までは、1年足らずだったと思います。おそらく丸1年もなかったはずです。当時、大学受験に必要な就学年数の条件が12年でしたから、私の場合はその条件に満たず、大学には行けませんでした。しかも、当時の沖縄には大学はなく、高校が最高学府でした。そのため、高校を卒業すると小中学校の教員になれました。
当時の教員は、男性の先生は少なく女性の先生が多かったです。あの頃は給料も少なく、1948(昭和23)年頃からようやく軍票が出ました。当時の米軍発行の軍票は、「B円」と呼ばれるものでした。当時の月給は、学校の先生が220円、 校長が400円、琉球政府の行政主席が 800円~1,000円でした。そうすると、闇商売で取引されたアメリカ製のタバコには、日の丸に似たイラストの「ラッキーストライク」がありましたが、それは1ケース10個入りで値段は300円でした。「学校の先生たちは1ヶ月働いても、タバコ1ボール(カートン)の値打ちもない」と言われていました。それで、当時の先生は「シンシーグァ」(先生小)と呼ばれました。戦前は、先生に対して「三尺下がって師の影を踏まず」という時代で先生をとても尊敬したものですが、戦後は、物がない時代で待遇もそのような状況だから、「シンシーグァーター」(先生たちを小バカにした呼び方)と言われて、大変恥ずかしい思いをした時代でもありました。軍作業の仕事に行ったり、いろんな所で仕事をすると、おそらく男の人は先生方の3~4倍も稼げるので男性の先生は少なかったです。
海運業とスクラップブーム
沖縄に道路がまだきちんと整備されていない時期で、トラックがあまり走っていない戦後の約10年間くらいは海運業が盛んで、海運業ではこの平安座が中心になりました。その頃は、スクラップブームでした。「スクラップブーム」というのは、戦争中に沈没した艦船や事故を起こした戦車など、そのようなものから銅線や鉄クズを引き上げて売り、金儲けをすることでした。銅線や鉄クズなどを探し当てようとする時に、当時はそれを探すための磁気を探査する機械等がないので、海に潜って肉眼で確認して探すという方法でした。平安座島には潜りを得意とする潜水夫が何名かいたので、他よりもよく見つけていました。それを引き上げてスクラップとして売り、それがブームになった頃、フィリピンやタイなどで漁業をしてきた方々が、戦後沖縄に引き揚げてきていました。その方々は、海に詳しく海で仕事をしてきているので、その中にはスクラップを探し当ててかなり儲けた人もいました。それとは逆に、スクラップを見つけられず損をした人もいたようです。スクラップブームは3年くらい続いたと思います。
私は、ある海運会社に働きに行ったことがあります。1947~48(昭和22~23)年頃、まだ奄美大島は日本に復帰していませんでした。そして、「十島村」といって奄美大島と鹿児島の間には10の島がありました。そこに「口之島」や「中之島」があり、北緯30度線のちょうど境界が口之島でした。私も船に乗って、沖縄から口之島へ銅線を持って行ったことがあります。もちろん私は船長ではなく、船員(乗組員)として持っていきました。口之島では、物々交換として、銅線を売り材木をもらって来るという交易をしていました。当時の状況下では、言わば密航や密貿易になるけれども、その時代に法律的に処罰されたということは聞いたことがありません。いわゆる「クズ鉄」「スクラップブーム」というのは、日本では鉄類が不足し、鉱山も十分ではなかったのでしょう。それで、銅線や鉄クズを日本が買い込んでいました。それを沖縄から売り込んだのが、スクラップブームでした。当時は大変な時代でした。北緯30度(米軍占領下の国境線)沿いの口之島に、私も行きました。
離島ゆえの苦難
当時の渡し船は小さいので大変でした。対岸の藪地島と平安座島の間で、船が転覆したことがあります。乗船していた9名のうち7名が水死した海難事故でした。私の先生もその中に含まれていました。海の事故は毎年ありました。例えば、島から対岸の屋慶名まで干潮時に浅瀬を歩いて渡る時に、方向を間違えると深みにはまってしまいます。深みにはまり溺れて水死してしまうという事故が、多々ありました。
それから、島に住む妊婦さんがお産をする時も大変でした。中には難産の人もいましたから、戸板を頑強な男性たち3~4名が担ぎそこに妊婦さんを乗せて、船がない時には、潮の引き際に大急ぎで病院まで運んでいきました。搬送が無事にできた時はいいのですが、搬送がうまくいかずお産の事故が起こったこともありました。急病があった時には、船も頼りになりませんでした。潮が引くと船は出せず、船主を起こして出港の準備をしてもらうにも30分~1時間はかかり、それではもう遅いのです。それから、戸板で運ぶにしても満潮になったら大変なので、引き潮の時に急患を運んだりして大変不便な時代でした。その離島苦を解消するため、「海中道路」を作ろうという気運が高まっていきました。
若い世代に伝えたい事
今の時代は「物質中心の時代」だと思います。いわゆる心と心の繋がりが希薄だということです。それは社会においても言えますし、親子や兄弟姉妹、そして友達の関係においても言えると思います。いわゆる物を中心とする人と人との繋がりや付き合い方ではなく、心の底からの信頼関係をお互いに築くことができる若者になってほしいです。お互いに信頼関係が築けるように、相手の人格を尊重し合おうではありませんか。自分自身にないものは、相手にあるものだと思います。お互いに人格を尊重し合う社会にしていきましょう。
奥田良正光さんは、小中学校教員や与那城村議会議員をはじめ、地元与那城村の各種団体・委員会の役職を歴任しました。1974年からの2期8年間は、与那城村長を務め地域の行政に尽力されました。長年にわたる地方自治への功績により、2001年に勲五等旭日双光章を受章されました。