「対馬丸」の生き残りとして歩んだ戦後
さん
1934(昭和9)年生まれ
国頭村出身
国頭村での生活
私は、1934(昭和9)年に国頭村安波(あは)で生まれました。集落ではみんな農業をしていたので、季節のごとの植え付けや収穫時には、子ども達も作業を手伝いとても役に立っていました。当時は牛や豚や鶏などの家畜の世話から、弟や妹の面倒までみていたので、勉強をするよりも家の手伝いをすることの方が多かったです。私は7名兄弟姉妹の4番目です。
対馬丸に乗船する
疎開には、祖母と県立第三高等女学校に通う姉、国民学校6年生の兄と4年生の私、そして東京にいる兄の婚約者も一緒でした。また、隣の家に住む従姉妹で私と同学年の時子も、親の反対を押し切り「啓子が行くなら私も行きたい」と言って、私たちと一緒に行くことになりました。
当時、父と兄が東京にいたので、疎開をするとお父さんや兄さんに会えると思いました。また、本土へ行けば雪を見たり電車に乗ることもできると思い、戦争中で危険だということは少しも考えていませんでした。それよりも、ヤマト(本土)に行くことへの憧れがありました。疎開に対して母は戸惑っていましたが、特に疎開に積極的だったのは6年生の兄でした。祖母は、疎開することをとても渋っていました。けれども、村としてはお年寄りや子どもを疎開させようとしていたので、祖母は家を離れたくないのに仕方なく疎開することになりました。祖母は集落の人たちに、東京に行けば息子に会えるからと説得されて疎開に行きましたが、結局は帰って来ませんでした。
対馬丸が撃沈される
1944(昭和19)年8月22日の夕方、私たちが乗船していた対馬丸では、「甲板に上がれ」という命令が出されました。私たちの家族も甲板に上がり、6名で一箇所に集まっていました。私と時子は、祖母の腕に抱かれたまま寝入ってしまいました。目が覚めると家族は見当たらず、私は海の中にいました。側にいたはずの姉の声も聞こえず、祖母の姿もありませんでした。「お姉ちゃん、おばあちゃん」と呼んでも返事はなく、波は荒れ狂い、潜水艦の攻撃を受けた対馬丸は燃え続けていました。子どもたちの叫ぶ声も聞こえ、兵隊たちが沈みかける対馬丸から子どもたちを海へ投げ込むのが見えました。何が何だか分からない状況の中、私は海に浮かんでいました。それっきり姉たちとは離ればなれになりましたが、その後、姉と兄の婚約者は船に救助されて助かりました。潮の流れが南北に分かれていたので、私たちは南の方へ、姉たちは北の方の鹿児島まで流されていました。
海の中で従姉妹の時子に再会すると、泣いているので「泣くと物が見えなくなるから、泣くのはよしなさい」と励ましました。そして、2人で醤油樽につかまりながら浮いていました。けれども、時子は、波に流されて醤油樽から離れてしまい、そのあと行方不明になりました。しばらくの間、私は時子を探しましたが見つかりませんでした。時子もいないし、次々に人が海に沈んで遺体も流れてくるので、私は怖くなりました。すると、50メートルほど沖の方で人が騒いでいるのが見えて、「向こうには生きている人がいる」と分かりました。私は、浮いている遺体や物の下を潜って泳いでいき、50メートル先の筏(いかだ)に乗り込むことができました。その筏は畳2畳ほどの大きさで、竹で作られていました。その筏を、何十名もの人々が奪い合っていました。私も大人に両足をつかまれ、海に引きずり込まれました。その人は、私を引きずり落として自分が筏に乗ろうとしていました。海に引きずり落とされた後も、ずっと水中で手足を引っ張られていたので、私はもう溺れて死ぬのだと思っていました。それでも、私は何とかしてその筏にしがみつきたかったので、周囲の隙を見て筏に乗り込むことができました。
夜が明けると、昨晩は多くの人が乗っていたはずの筏にいたのは、わずか10人だけでした。しかも、人を引きずり落としていた男の人たちは、1人もいませんでした。それは、母親に抱かれた2歳くらいの男の子と、その他9人はすべて女性でした。
漂流し無人島へ
それから漂流が始まりました。漂流中は8月の真夏の太陽が照りつけるため、日焼けで顔の皮が剥けてしまい、みんな醜い顔になりました。今考えると、あの海を6日間も漂流し生き延びたのが不思議なくらいです。その後、私たちは奄美大島の宇検村にある枝手久島という無人島に漂着しました。筏が音をたてて止まった時、私は慌てて筏から飛び降りました。島にたどり着いた時には、本当に嬉しかったです。
夜が明けてくると、水を求めて島の上の方へと進んでいきました。その後は、沖の方に船が来ないかずっと待ちわびていました。すると、 船が目の前に現れました。その船を呼び止めようと、大きな声で 「オーイ」とみんなで声を合わせて叫びました。そして、私は小高い岩に登りました。しばらくすると、船は方向を変えてこちらに向かって来ました。その時の歓びは、何とも言いようがありませんでした。みんなで泣いて喜びました。船の船頭さんが私を見つけて、「お嬢ちゃん、よく頑張ったね。君は偉かったね」と言って、褒めてくれました。私が黙ってうつむいていると、「さぁお食べなさい」と言って飯盒に入った柔らかい白いご飯と柔らかい黒砂糖を差し出してくれました。私たちはそれに手を突っ込み、必死になって食べました。
筏に乗っていた10人の中で、生き残ったのは4人だけでした。その後は、枝手久島の対岸にある村の診療所に私たちは運ばれました。そこでは、治療を受けたり食事を頂いたりと大変お世話になりました。そうして、私たちはやっと生きた心地がしました。
奄美大島での生活
ある日、父の友人の津嘉山さんに会うことができました。そして、連れられて行ったのが奄美大島の古仁屋という村でした。私はそこで半年間過ごしました。しばらくの間、私は津嘉山さんの家で暮らしました。そこには9ヵ月くらいの男の子がいたので、私はその子の子守をしながら津嘉山さんの船を見送ったり、迎えたりして過ごしました。その後、奄美大島でも空襲があり、夜に何度も防空壕へ避難することもありました。
津嘉山さんは、私の母宛に電報を送って下さいました。「ケイコ、ココニイル、イキテイル」という内容でした。それを見た母は、私が助かったと知り大喜びして、私の帰りを待ちわびていました。母からの手紙が来た時には、その手紙を隠れて読んでは泣いていました。この家にはお世話になっているのだから、悲しい顔を見せてはいけないと子どもなりに気を遣い、赤ちゃんの子守をしていました。
国頭村安波集落から対馬丸には40名が乗船しましたが、その内 37名が亡くなりました。私の家族からは、私たち姉妹と兄の婚約者の3名だけが生き残りました。そのため、集落には戦後も空き家がありました。家族全員が乗船して、一家全滅のところもありました。
半年ぶりに故郷へ
1945(昭和20)年2月22日に、津嘉山さんの船で奄美大島から沖縄に向かいました。その途中、徳之島で1泊して出発すると、空襲に遭ってしまいました。その時、私は空から船が攻撃されるのを見ました。津嘉山さんは、このままでは危険で空襲で船がやられるからと、慌てて与論島の港に隠れました。そして、近くの山で木を伐採し、それで船を偽装しました。夕方、日が暮れて空襲警報が解除になると、夜の海を渡り国頭村安田の集落に着きました。
私の母が安田にやって来て、「啓子はどこにいるの」と必死にミーグルグルして(見回して)私を探していましたが、母は私を見ているのに私だとは気付きませんでした。そのくらい私の様子が、以前とは変わっていました。私は、安波で暮らしている頃は痩せていましたが、奄美大島の津嘉山さん宅でご馳走を食べて身体も大きくなっていました。肌の色も白くなって可愛らしくなり、以前とは見違えるほど変わっていました。そのため、母は私だとは気付きませんでした。それで、私の方から母に抱きついていきました。
故郷の安波に戻り最初に会った人は、従姉妹の時子のお母さんでした。「あなたは元気で帰って来たのに、うちの時子は太平洋に置いてきたの」と、はっきりと言われました。私は泣いて、家に隠れてしまいました。親の気持ちを思うと、そのように言われるのも当然だと思いました。その頃、私の家には吉田さんという日本兵が滞在していました。防衛のために来ていて、食事の世話があるため、各家庭に1人ずつ配置されていました。その日本兵は通信隊で、山中での任務についていたそうです。当時、学校の運動場は芋畑になっていました。時々、 空襲もありました。私が船で安田に着いた日も、集落に米軍の機銃掃射がありました。「この戦の中、よく無事に帰って来たね」と、みんなが不思議がっていました。
苦しい避難生活
3月には、山の上にある避難小屋に移動しました。その後すぐに、沖縄戦が始まりました。3月~4月は山小屋に避難していましたが、その後「日本は戦争に負けたらしい」「みんな米軍の捕虜になるのだから山から下りてこい」と言われて、みんな山から下ろされて安波の集落に集められました。安波の人々は、米軍の舟艇に乗せられ大宜味村の饒波(のは)辺りに連れて行かれました。私の母は、「啓子はもう二度と船には乗せない。撃沈された船から生きて帰って来たのに、また船に乗れば米軍に太平洋へ捨てられるかもしれないから、絶対に乗せない」と言って反対したので、私たちは海とは逆の山の方へ逃げました。そして山の奥の方へと進み、山を越えて西の方へと出ました。
私たちは、国頭村辺土名の上島という所に避難しました。そこに半年ほど避難していました。食料もなく、母はマラリアに罹って子どもの面倒を見ることができなくなりました。その時、残っていた家族は私と母、4歳の弟と7歳の妹の4名だけでした。そのため、36㎞もある山道を、私は歩いて辺土名の上島の集落から安波まで行き、自分の畑から芋を掘り出しました。今度はそれを籠に入れて担ぎ、また36㎞の山道を歩いて戻りました。その芋を煮て弟や妹、そして母に食べさせました。それが無くなると、また芋を掘りに行きました。そうしているうちに、遂に安波の畑の芋も無くなってしまいました。食べる物が無くなり、お腹がすいて体もふらつくので大変でした。弟は痩せこけてお腹が膨れ、今にも死にそうな状態でした。私は責任を感じて、弟を医者のところへ連れて行くと、「この子は病気ではなく栄養不足です」と言われました。ある人から「カエルや虫などを食べさせた方が良い」と教えられたので、弟に食べさせるため、裏庭で飛び跳ねているカエルを捕まえました。カエルのお腹を割き、洗って串に刺したものを火で焼いて、それに塩をふりかけて弟に食べさせようとしました。けれども、弟は「汚いし、怖いから食べたくない」と言うので、私は「これを食べないと死ぬよ」と脅して、弟に無理やり食べさせました。母や妹や私もカエルを捕まえて食べたら、元気が出てきました。それからは、カエルの味を覚えた弟が「日が暮れたら、カエルがここによく出てくるよ」と教えてくれました。その当時は、トンボもセミもよく食べました。
終戦直後の生活
そのようにして命を繋いでいるうちに終戦となり、家族で山を越えて安波の集落に戻りました。私たちが住んでいた屋敷は、全焼していました。安波の集落はみんな燃えてしまい、家ひとつ残っていませんでした。そこで、隣近所のおじさんたちと協力して小さな掘っ建て小屋を作り、戦後はそこに住み始めました。戦直後は、学校の勉強どころではありませんでした。学校の校舎には、中南部からの避難民が大勢いました。校舎の窓ガラスは米軍に全て叩き壊されて散乱し、その中に大勢の人々が収容されていました。食べ物もなく、餓死する人もいました。毎日のように人が亡くなり、遺体はモッコのようなもので運ばれて、安波集落の港の入口や墓の近くに投げ捨てられるという噂を聞きました。集落では、たくさんの避難民が餓死していました。私たち集落の人の食べ物もありませんでした。畑も全部荒らされていました。食料がないので、海水を汲んできて味噌汁を作ったり、様々なことをして私たちは生き延びてきました。芋が掘り出された後の畑を耕し、小さな芋が残っていないか探したりしました。そうやって、何とか食いつないで生きているという状況でした。
しばらくすると、米軍からの無償配給がありました。その中には、ミルクやポーク缶、牛缶などいろんなものがありました。その美味しいものを食べてみんな活気づき、毛布なども配給されたので何とか命を繋ぐことができました。
高校進学と寮生活
東京から父と兄と姉たちが家に帰って来たので、私たちの家族も活気づきました。その頃には、何とか自分たちの畑でも芋を作って食いつないでいたので、高校への進学を考えても良い頃かなと私は思いました。高校に行ける程のお金は稼げないし、進学したいことを父には言いづらく、絶対に高校には通わせてもらえないだろうと思っていました。父に相談してみると、やはり反対されました。行きたいのに行かせてもらえないのかと悲しんでいると、「寮に入れるためのお金がない」と言われ、私は諦めるしかないと思いました。ちょうどその頃、同級生の父親が校長をしていたので、その校長先生が説得してくれました。それで、ようやく父から高校進学の許可が出たので、その時はとても嬉しかったです。集落からは受験した4名全員が合格したので、皆で大きなお祝いをしました。みんな高校に入学し、そして卒業することができました。
当時、ハイスクールと呼ばれた辺土名高等学校に入学しました。高校には茅葺きの寄宿舎(寮)があり、それはとても古い建物でした。食事もそれほど良いものではありませんでしたが、美味しい食べ物が無くても、私たちはやせ我慢をしながら3年間を(大宜味村)饒波の寮で過ごしました。学校の校舎には、丸いコンセット(米軍のカマボコ型兵舎)もありました。私は辺土名高等学校の8期生です。当時の教科書は、プリントのようなものや薄いノートのようなものでした。私は高校の寮に入っていましたが、あまり勉強はしていません。いつも後輩の世話ばかりをしていました。遠方の子たちは、寮に入ってくるとみんな泣いていました。「ヤンバルに帰りたい」「家に帰りたい」「ご飯が美味しくない」と泣いていました。通学のバスも便数が少ない頃なので、寮で誰かが風邪をひくと、私は登校せずに、後輩の看病をしたりお粥を作ってあげたりしました。看護婦のように世話をしている事が多く、勉強はあまりできませんでした。それでも楽しい高校時代でした。
私が高校生の頃、父は那覇の大きな土建会社に勤めていました。高校卒業後は、父の勤める会社に働き口があるからと言われたので、私は那覇に行き父と同じ会社で働きました。
母校の教員となる
その頃に、母校(安波小学校)の校長先生から「先生になる人がいないから来てくれないか」と言われたので、私は喜んで行きました。すでに、私の家族はみんな那覇に移り住んでいたため、私は祖母の家に下宿しながら、母校である安波小学校の助教諭になりました。その後は、1年更新で助教諭を続けていましたが、校長先生から「君は教員に向いているから続けた方が良い」と言われました。当時、琉球大学に通信教育課程があったので、それを受講して単位を取得しました。また、沖縄に来る日本本土の大学の先生方の講義も受講しました。そのように必要な単位を取得し、教員免許状の一級免許を取得して教員を続けました。
子どもたちには、自分のような体験をさせたくないという思いでいました。今では教え子たちも大きくなり、教員や校長になっている人もいます。みんな頑張っているので、私は嬉しく思います。
若い世代に伝えたい事
若い人たちには、もう少し世間にも関心を持ってほしいです。これからの世の中がどうなるのかということを、じっくりと歴史を勉強しながら考えてほしいです。そして、平和のために自分は何ができるのかということを見つけ出して欲しいです。私はそのように思います。
平良啓子さんは、長年にわたり小学校教諭を務め、平和教育に尽力されました。「対馬丸事件」の生存者として自らの体験を語り続け、退職後も「語り部」として沖縄戦の実相を伝えてきました。
国頭村での生活
私は、1934(昭和9)年に国頭村安波(あは)で生まれました。集落ではみんな農業をしていたので、季節のごとの植え付けや収穫時には、子ども達も作業を手伝いとても役に立っていました。当時は牛や豚や鶏などの家畜の世話から、弟や妹の面倒までみていたので、勉強をするよりも家の手伝いをすることの方が多かったです。私は7名兄弟姉妹の4番目です。
対馬丸に乗船する
疎開には、祖母と県立第三高等女学校に通う姉、国民学校6年生の兄と4年生の私、そして東京にいる兄の婚約者も一緒でした。また、隣の家に住む従姉妹で私と同学年の時子も、親の反対を押し切り「啓子が行くなら私も行きたい」と言って、私たちと一緒に行くことになりました。
当時、父と兄が東京にいたので、疎開をするとお父さんや兄さんに会えると思いました。また、本土へ行けば雪を見たり電車に乗ることもできると思い、戦争中で危険だということは少しも考えていませんでした。それよりも、ヤマト(本土)に行くことへの憧れがありました。疎開に対して母は戸惑っていましたが、特に疎開に積極的だったのは6年生の兄でした。祖母は、疎開することをとても渋っていました。けれども、村としてはお年寄りや子どもを疎開させようとしていたので、祖母は家を離れたくないのに仕方なく疎開することになりました。祖母は集落の人たちに、東京に行けば息子に会えるからと説得されて疎開に行きましたが、結局は帰って来ませんでした。
対馬丸が撃沈される
1944(昭和19)年8月22日の夕方、私たちが乗船していた対馬丸では、「甲板に上がれ」という命令が出されました。私たちの家族も甲板に上がり、6名で一箇所に集まっていました。私と時子は、祖母の腕に抱かれたまま寝入ってしまいました。目が覚めると家族は見当たらず、私は海の中にいました。側にいたはずの姉の声も聞こえず、祖母の姿もありませんでした。「お姉ちゃん、おばあちゃん」と呼んでも返事はなく、波は荒れ狂い、潜水艦の攻撃を受けた対馬丸は燃え続けていました。子どもたちの叫ぶ声も聞こえ、兵隊たちが沈みかける対馬丸から子どもたちを海へ投げ込むのが見えました。何が何だか分からない状況の中、私は海に浮かんでいました。それっきり姉たちとは離ればなれになりましたが、その後、姉と兄の婚約者は船に救助されて助かりました。潮の流れが南北に分かれていたので、私たちは南の方へ、姉たちは北の方の鹿児島まで流されていました。
海の中で従姉妹の時子に再会すると、泣いているので「泣くと物が見えなくなるから、泣くのはよしなさい」と励ましました。そして、2人で醤油樽につかまりながら浮いていました。けれども、時子は、波に流されて醤油樽から離れてしまい、そのあと行方不明になりました。しばらくの間、私は時子を探しましたが見つかりませんでした。時子もいないし、次々に人が海に沈んで遺体も流れてくるので、私は怖くなりました。すると、50メートルほど沖の方で人が騒いでいるのが見えて、「向こうには生きている人がいる」と分かりました。私は、浮いている遺体や物の下を潜って泳いでいき、50メートル先の筏(いかだ)に乗り込むことができました。その筏は畳2畳ほどの大きさで、竹で作られていました。その筏を、何十名もの人々が奪い合っていました。私も大人に両足をつかまれ、海に引きずり込まれました。その人は、私を引きずり落として自分が筏に乗ろうとしていました。海に引きずり落とされた後も、ずっと水中で手足を引っ張られていたので、私はもう溺れて死ぬのだと思っていました。それでも、私は何とかしてその筏にしがみつきたかったので、周囲の隙を見て筏に乗り込むことができました。
夜が明けると、昨晩は多くの人が乗っていたはずの筏にいたのは、わずか10人だけでした。しかも、人を引きずり落としていた男の人たちは、1人もいませんでした。それは、母親に抱かれた2歳くらいの男の子と、その他9人はすべて女性でした。
漂流し無人島へ
それから漂流が始まりました。漂流中は8月の真夏の太陽が照りつけるため、日焼けで顔の皮が剥けてしまい、みんな醜い顔になりました。今考えると、あの海を6日間も漂流し生き延びたのが不思議なくらいです。その後、私たちは奄美大島の宇検村にある枝手久島という無人島に漂着しました。筏が音をたてて止まった時、私は慌てて筏から飛び降りました。島にたどり着いた時には、本当に嬉しかったです。
夜が明けてくると、水を求めて島の上の方へと進んでいきました。その後は、沖の方に船が来ないかずっと待ちわびていました。すると、 船が目の前に現れました。その船を呼び止めようと、大きな声で 「オーイ」とみんなで声を合わせて叫びました。そして、私は小高い岩に登りました。しばらくすると、船は方向を変えてこちらに向かって来ました。その時の歓びは、何とも言いようがありませんでした。みんなで泣いて喜びました。船の船頭さんが私を見つけて、「お嬢ちゃん、よく頑張ったね。君は偉かったね」と言って、褒めてくれました。私が黙ってうつむいていると、「さぁお食べなさい」と言って飯盒に入った柔らかい白いご飯と柔らかい黒砂糖を差し出してくれました。私たちはそれに手を突っ込み、必死になって食べました。
筏に乗っていた10人の中で、生き残ったのは4人だけでした。その後は、枝手久島の対岸にある村の診療所に私たちは運ばれました。そこでは、治療を受けたり食事を頂いたりと大変お世話になりました。そうして、私たちはやっと生きた心地がしました。
奄美大島での生活
ある日、父の友人の津嘉山さんに会うことができました。そして、連れられて行ったのが奄美大島の古仁屋という村でした。私はそこで半年間過ごしました。しばらくの間、私は津嘉山さんの家で暮らしました。そこには9ヵ月くらいの男の子がいたので、私はその子の子守をしながら津嘉山さんの船を見送ったり、迎えたりして過ごしました。その後、奄美大島でも空襲があり、夜に何度も防空壕へ避難することもありました。
津嘉山さんは、私の母宛に電報を送って下さいました。「ケイコ、ココニイル、イキテイル」という内容でした。それを見た母は、私が助かったと知り大喜びして、私の帰りを待ちわびていました。母からの手紙が来た時には、その手紙を隠れて読んでは泣いていました。この家にはお世話になっているのだから、悲しい顔を見せてはいけないと子どもなりに気を遣い、赤ちゃんの子守をしていました。
国頭村安波集落から対馬丸には40名が乗船しましたが、その内 37名が亡くなりました。私の家族からは、私たち姉妹と兄の婚約者の3名だけが生き残りました。そのため、集落には戦後も空き家がありました。家族全員が乗船して、一家全滅のところもありました。
半年ぶりに故郷へ
1945(昭和20)年2月22日に、津嘉山さんの船で奄美大島から沖縄に向かいました。その途中、徳之島で1泊して出発すると、空襲に遭ってしまいました。その時、私は空から船が攻撃されるのを見ました。津嘉山さんは、このままでは危険で空襲で船がやられるからと、慌てて与論島の港に隠れました。そして、近くの山で木を伐採し、それで船を偽装しました。夕方、日が暮れて空襲警報が解除になると、夜の海を渡り国頭村安田の集落に着きました。
私の母が安田にやって来て、「啓子はどこにいるの」と必死にミーグルグルして(見回して)私を探していましたが、母は私を見ているのに私だとは気付きませんでした。そのくらい私の様子が、以前とは変わっていました。私は、安波で暮らしている頃は痩せていましたが、奄美大島の津嘉山さん宅でご馳走を食べて身体も大きくなっていました。肌の色も白くなって可愛らしくなり、以前とは見違えるほど変わっていました。そのため、母は私だとは気付きませんでした。それで、私の方から母に抱きついていきました。
故郷の安波に戻り最初に会った人は、従姉妹の時子のお母さんでした。「あなたは元気で帰って来たのに、うちの時子は太平洋に置いてきたの」と、はっきりと言われました。私は泣いて、家に隠れてしまいました。親の気持ちを思うと、そのように言われるのも当然だと思いました。その頃、私の家には吉田さんという日本兵が滞在していました。防衛のために来ていて、食事の世話があるため、各家庭に1人ずつ配置されていました。その日本兵は通信隊で、山中での任務についていたそうです。当時、学校の運動場は芋畑になっていました。時々、 空襲もありました。私が船で安田に着いた日も、集落に米軍の機銃掃射がありました。「この戦の中、よく無事に帰って来たね」と、みんなが不思議がっていました。
苦しい避難生活
3月には、山の上にある避難小屋に移動しました。その後すぐに、沖縄戦が始まりました。3月~4月は山小屋に避難していましたが、その後「日本は戦争に負けたらしい」「みんな米軍の捕虜になるのだから山から下りてこい」と言われて、みんな山から下ろされて安波の集落に集められました。安波の人々は、米軍の舟艇に乗せられ大宜味村の饒波(のは)辺りに連れて行かれました。私の母は、「啓子はもう二度と船には乗せない。撃沈された船から生きて帰って来たのに、また船に乗れば米軍に太平洋へ捨てられるかもしれないから、絶対に乗せない」と言って反対したので、私たちは海とは逆の山の方へ逃げました。そして山の奥の方へと進み、山を越えて西の方へと出ました。
私たちは、国頭村辺土名の上島という所に避難しました。そこに半年ほど避難していました。食料もなく、母はマラリアに罹って子どもの面倒を見ることができなくなりました。その時、残っていた家族は私と母、4歳の弟と7歳の妹の4名だけでした。そのため、36㎞もある山道を、私は歩いて辺土名の上島の集落から安波まで行き、自分の畑から芋を掘り出しました。今度はそれを籠に入れて担ぎ、また36㎞の山道を歩いて戻りました。その芋を煮て弟や妹、そして母に食べさせました。それが無くなると、また芋を掘りに行きました。そうしているうちに、遂に安波の畑の芋も無くなってしまいました。食べる物が無くなり、お腹がすいて体もふらつくので大変でした。弟は痩せこけてお腹が膨れ、今にも死にそうな状態でした。私は責任を感じて、弟を医者のところへ連れて行くと、「この子は病気ではなく栄養不足です」と言われました。ある人から「カエルや虫などを食べさせた方が良い」と教えられたので、弟に食べさせるため、裏庭で飛び跳ねているカエルを捕まえました。カエルのお腹を割き、洗って串に刺したものを火で焼いて、それに塩をふりかけて弟に食べさせようとしました。けれども、弟は「汚いし、怖いから食べたくない」と言うので、私は「これを食べないと死ぬよ」と脅して、弟に無理やり食べさせました。母や妹や私もカエルを捕まえて食べたら、元気が出てきました。それからは、カエルの味を覚えた弟が「日が暮れたら、カエルがここによく出てくるよ」と教えてくれました。その当時は、トンボもセミもよく食べました。
終戦直後の生活
そのようにして命を繋いでいるうちに終戦となり、家族で山を越えて安波の集落に戻りました。私たちが住んでいた屋敷は、全焼していました。安波の集落はみんな燃えてしまい、家ひとつ残っていませんでした。そこで、隣近所のおじさんたちと協力して小さな掘っ建て小屋を作り、戦後はそこに住み始めました。戦直後は、学校の勉強どころではありませんでした。学校の校舎には、中南部からの避難民が大勢いました。校舎の窓ガラスは米軍に全て叩き壊されて散乱し、その中に大勢の人々が収容されていました。食べ物もなく、餓死する人もいました。毎日のように人が亡くなり、遺体はモッコのようなもので運ばれて、安波集落の港の入口や墓の近くに投げ捨てられるという噂を聞きました。集落では、たくさんの避難民が餓死していました。私たち集落の人の食べ物もありませんでした。畑も全部荒らされていました。食料がないので、海水を汲んできて味噌汁を作ったり、様々なことをして私たちは生き延びてきました。芋が掘り出された後の畑を耕し、小さな芋が残っていないか探したりしました。そうやって、何とか食いつないで生きているという状況でした。
しばらくすると、米軍からの無償配給がありました。その中には、ミルクやポーク缶、牛缶などいろんなものがありました。その美味しいものを食べてみんな活気づき、毛布なども配給されたので何とか命を繋ぐことができました。
高校進学と寮生活
東京から父と兄と姉たちが家に帰って来たので、私たちの家族も活気づきました。その頃には、何とか自分たちの畑でも芋を作って食いつないでいたので、高校への進学を考えても良い頃かなと私は思いました。高校に行ける程のお金は稼げないし、進学したいことを父には言いづらく、絶対に高校には通わせてもらえないだろうと思っていました。父に相談してみると、やはり反対されました。行きたいのに行かせてもらえないのかと悲しんでいると、「寮に入れるためのお金がない」と言われ、私は諦めるしかないと思いました。ちょうどその頃、同級生の父親が校長をしていたので、その校長先生が説得してくれました。それで、ようやく父から高校進学の許可が出たので、その時はとても嬉しかったです。集落からは受験した4名全員が合格したので、皆で大きなお祝いをしました。みんな高校に入学し、そして卒業することができました。
当時、ハイスクールと呼ばれた辺土名高等学校に入学しました。高校には茅葺きの寄宿舎(寮)があり、それはとても古い建物でした。食事もそれほど良いものではありませんでしたが、美味しい食べ物が無くても、私たちはやせ我慢をしながら3年間を(大宜味村)饒波の寮で過ごしました。学校の校舎には、丸いコンセット(米軍のカマボコ型兵舎)もありました。私は辺土名高等学校の8期生です。当時の教科書は、プリントのようなものや薄いノートのようなものでした。私は高校の寮に入っていましたが、あまり勉強はしていません。いつも後輩の世話ばかりをしていました。遠方の子たちは、寮に入ってくるとみんな泣いていました。「ヤンバルに帰りたい」「家に帰りたい」「ご飯が美味しくない」と泣いていました。通学のバスも便数が少ない頃なので、寮で誰かが風邪をひくと、私は登校せずに、後輩の看病をしたりお粥を作ってあげたりしました。看護婦のように世話をしている事が多く、勉強はあまりできませんでした。それでも楽しい高校時代でした。
私が高校生の頃、父は那覇の大きな土建会社に勤めていました。高校卒業後は、父の勤める会社に働き口があるからと言われたので、私は那覇に行き父と同じ会社で働きました。
母校の教員となる
その頃に、母校(安波小学校)の校長先生から「先生になる人がいないから来てくれないか」と言われたので、私は喜んで行きました。すでに、私の家族はみんな那覇に移り住んでいたため、私は祖母の家に下宿しながら、母校である安波小学校の助教諭になりました。その後は、1年更新で助教諭を続けていましたが、校長先生から「君は教員に向いているから続けた方が良い」と言われました。当時、琉球大学に通信教育課程があったので、それを受講して単位を取得しました。また、沖縄に来る日本本土の大学の先生方の講義も受講しました。そのように必要な単位を取得し、教員免許状の一級免許を取得して教員を続けました。
子どもたちには、自分のような体験をさせたくないという思いでいました。今では教え子たちも大きくなり、教員や校長になっている人もいます。みんな頑張っているので、私は嬉しく思います。
若い世代に伝えたい事
若い人たちには、もう少し世間にも関心を持ってほしいです。これからの世の中がどうなるのかということを、じっくりと歴史を勉強しながら考えてほしいです。そして、平和のために自分は何ができるのかということを見つけ出して欲しいです。私はそのように思います。
平良啓子さんは、長年にわたり小学校教諭を務め、平和教育に尽力されました。「対馬丸事件」の生存者として自らの体験を語り続け、退職後も「語り部」として沖縄戦の実相を伝えてきました。