遥か海を越えて 私の歩んだ戦後
さん
1928(昭和3)年生まれ
宮古島市出身
戦時中 宮古島から台湾へ渡る
私は1928(昭和3)年生まれです。実家は、宮古島の漲水港(現在の平良港)の近くでした。7名兄弟の中の私は三男で、上から5番目です。父親の職業は、「馬喰(ばくろう)」という当時では珍しい仕事でした。牛や豚など家畜の売り買いをしていて、沖縄本島との取引をしていました。それで父は、宮古島から沖縄本島まで頻繁に行き来していました。
1943(昭和18)年3月頃だったと思いますが、私は宮古島から台湾の基隆(キールン)に渡りました。当時、台湾の台北にも「逓信講習所※」(※郵便・通信の職員養成所)という機関がありました。私はそこを受験するため、基隆に行きました。けれども、逓信講習所の受験に失敗したので、ある方を通じて仕事を紹介してもらいました。
要塞司令部での勤務
私は、基隆にある日本軍の要塞司令部で働くことになりました。そこでは「小使い(用務員)」とよばれる仕事をしました。仕事の内容としては、いろいろな文書があったので、私が配属された司令部から各部隊へ文書を配達していました。軍司令部は台北にあったので、約20キロ以上の距離を自転車に乗って、文書を届けたこともありました。私は、住み込みのようにして働いていました。私を含め「小使い」は2人いました。私たちの部屋は、食堂も兼ねた大きな部屋でした。寝室は個室で、そこに寝泊まりしていました。電話番も兼ねていたので、1日おきに泊まっていました。
基隆での生活は、宮古島での生活とは比べものになりませんでした。基隆の街並みは綺麗に区画整理されていて、台湾の建物には「亭仔脚(ていしきゃく)」という建築様式があり、建物の2階部分が歩道の上まで伸びていました。雨が降っても、濡れずに歩くことができる造りになっていました。その建築様式を見て、私は感心しました。
基隆での空襲
「十・十空襲」の頃、台湾にも米軍のグラマン戦闘機が来ました。飛行機がたくさん飛んでいるのを、私は屋根に登り喜んで見ていました。最初は、友軍(日本軍)の飛行機が飛んでいるものだと思っていました。そうしていると、港の方から爆撃音が聞こえてきました。それで、これは米軍のグラマン戦闘機だと気付きました。みんな驚いて、防空壕に逃げ込みました。グラマン戦闘機は、港の船を中心に爆撃しました。民間への爆撃はありませんでした。その後、B-29爆撃機がやってきて無差別に爆撃を行い、街は全部焼けてしまいました。
基隆で終戦を迎える
1945(昭和20)年8月15日、玉音放送があるという事を聞いて、私は職場の皆と一緒に外に出て玉音放送を聞いていました。その時は、戦争に負けて良かったと思いました。当時の中学生には、「警備召集」として召集された生徒もいたので、その生徒たちは日本の敗戦が分かると大泣きしていました。兵隊たちは、それほど取り乱してはいませんでした。
終戦後、台湾から宮古島に帰る人たちは、海のそばに爆撃された基隆港の倉庫群があったので、屋根もないようなコンクリートの廃屋でしたが、宮古島へ引き揚げるまでの間はそこに滞在していました。中国大陸から進駐軍(国民党軍)が上陸することになり、その時には問題が起きないように、日本人は全員基隆港から少し離れた場所に移動するように言われたので、私たちはそこへ行きました。移動したのは、進駐軍が基隆へ上陸した日だけでした。進駐軍が通り過ぎた日の夕方には、また元の場所に戻りました。
栄丸遭難事件
終戦後、早い時期に宮古島へ引き揚げた人たちは、それぞれで船を貸し切ってその船に乗って引き揚げました。私も叔父の世話をするため、船に乗ることになりました。その船が「栄丸(さかえまる)」です。何日間か船が出るのを待っていると、船の機関長を務めた経験のある私の従兄弟が来て、船に詳しい彼はこのように言いました。栄丸は丘で野ざらしにされていた廃船寸前の船で、船の数が足りないために無理矢理使っているようなものだから、危険なので乗らない方が良いということでした。それを聞いて私は、叔父にも栄丸に乗らない方が良いと伝えました。叔父たちも、栄丸には乗らない事にしました。しかし、私たちの荷物はすでに栄丸に積んでいたので、荷物番のため仕方なく私だけは栄丸に乗りました。
案の定、栄丸はエンジンが故障してしまいました。その頃は11月で、強い北風が吹いていました。船はエンジンが止まるとどうしようも無いので、北風に流されてしまい、基隆港から出て反対側の岩だらけの海岸(磯)の近くにアンカーを下ろしました。私は船のデッキにいましたが、突然大波がきて船から海に落とされてしまいました。最終的に栄丸は、海岸に打ち上げられていました。確かな数字は覚えていませんが、乗船者数160人中、生存者は30人ほどだったと思います。無事に救助された人の中には、5、6歳ぐらいの男の子もいました。私を含め助かるかどうかは、運次第だったのではないかと思います。
岸から松明(たいまつ)を持って助けに来てくれた人たちは、私たちが海岸まで上がってくると、私たちを背負って陸まで運んでくれました。どのような小屋だったかあまり覚えていませんが、浜辺ちかくの小屋で1晩泊まりました。翌朝、助けてくれた人たちに呼ばれて、海岸に打ち上げられた遺体の片付けを手伝ってほしいといわれました。生存者の中で若くて元気な者は、遺体の片付け作業に駆り出されました。乗船者の遺体は、ほとんど海岸に打ち上げられていました。内臓が飛び出た遺体や、頭が歪んでいるような遺体もありました。見ると目を覆いたくなる遺体ばかりでした。
栄丸は30トン弱の小さな船でした。機関の故障が無かったとしても、大変な事故になっていたと思います。船の大きさに対し多くの人が乗っていたので、あの船に乗ったことはとても危険なことだったと思います。不思議なことに、私には助かった後の記憶がほとんどありません。遺体の片付けをしたことは覚えていますが、誰が私をどのように宮古島へ連れ帰ったのかは全く覚えていません。
宮古島に戻り「闇商売」の船員へ
1945(昭和20)年12月頃、私は宮古島に帰ってきました。栄丸に乗ったのが11月なので、おそらく12月だったと思います。宮古島に帰って来て見た街の様子は、空襲を受けて焼け野原のようでした。米兵はいましたが、それほど大人数ではありませんでした。宮古島の測候所に米軍が駐留していました。私は、半年ちかく米軍住宅のハウスキーパーの仕事をしました。その後は、船に乗る仕事でした。
当時、カジキ漁の「突きん棒船」がありました。私が船員になったのは、おそらくその「突きん棒船」だったと思います。与那国島で船を2隻持っている方がいたので、私はその船のうち1隻に乗って、与那国島から沖縄本島の糸満沖まで移動して、しばらくの間「闇商売」をやっていました。与那国島を出発した船は、ほとんど客や荷物が無い空船でした。沖縄本島からは、潤滑油が入ったドラム缶や、タイヤや米兵の衣服などを運び出しました。糸満では、沖渡しで荷物を積んでいました。いつも久米島経由でしたので、久米島からの積み荷もあったと思います。船主の奥さんは与那国の祖納の出身で、船主は多良間島の出身だと聞いています。奥さんが祖納の人だから、夫婦で祖納に住んでいました。鰹節工場の経営者でもありました。荷物は祖納の港に降ろしていました。与那国の好景気の時代は、もう少しあとの事です。私たちが「闇商売」をしていた頃は、景気の良さは感じませんでした。同じように「闇商売」をしている人は、そんなにいませんでした。与那国の「闇商売」が盛んになるのは、ずっと後の事です。私は4、5回航海に出て、半年ほど「闇商売」をやりました。その間、私は与那国島や宮古島で過ごしました。
その後、宮古島の商人達が設立した物産会社があり、その会社が「太平丸(たいへいまる)」という船を所有していたので、私はその船の乗組員になりました。私は太平丸に乗って、八重山から材木や薪を積んで宮古島に運んできました。当時、薪や材木のほとんどを八重山から運んでいました。石垣島の平久保からの積み込みが多かったです。その後、太平丸は廃船となり「物産丸(ぶっさんまる)」という新造船を使うようになりました。それからは、物産丸に乗るようになりました。終戦後は、沖縄本島や奄美大島そして十島村(トカラ列島)まで行きました。ある時、プラタス諸島(東沙諸島)まで、海人草(方言名:ナチョーラ)を取りに行きました。船はプラタス諸島をうっかり通り過ぎてしまい、中国の沿岸近くまで行ってしまいました。そして、私たちは外国の警備船に捕まりマカオまで連れて行かれ、そこに約6ヵ月間滞在しました。その間は、刑務所に収監されるという事ではなく、船(物産丸)だけ没収されました。船主である宮古島の物産会社は、なんとかして物産丸を取り戻そうと、競売にかけられていた物産丸をお金を払ってどうにか買い戻しました。ところが、また問題がおきて、船からはノズルなどの肝心な機械部品が取られていました。それで、私たちは部品を揃えるためにマカオに半年間もいました。
物産丸の大きさは30トンくらいで、杉の木で造られていました。宮古島から荷物を運んで行ったことはありませんが、沖縄本島を経由していたので、宮古島から客を乗せて沖縄本島で降ろしていました。それから奄美大島の名瀬や、十島村の口之島まで行きました。その頃は警察もいたと思いますが、あまり「闇商売」には干渉しませんでした。当時は国境線がありましたが、自由に往来できました。十島村の口之島や中之島まで行き、そこで材木やお米、ミカンなどを積み込みました。その後、また沖縄本島に立ち寄り、乗客がいれば沖縄本島から乗せて宮古島に帰りました。物産丸でも石垣島から材木や薪や運びました。
沖縄本島に渡り発電所の仕事へ
その物産丸を降りて、私が沖縄本島に来たのは1949(昭和24)年頃です。宮古島の先輩が浦添の牧港にある発電所建設に携わっていると聞いて、その情報を頼りに行ってみました。そこでは、宮古島出身の先輩たちが働いていました。発電所用のタービンやボイラーなどは何十トンもする重量物だったので、あの当時は道路を使って運ぶことはできませんでした。那覇港から米軍のLST(上陸用舟艇)に積んで運びました。牧港の発電所のすぐそばには砂浜があったので、上陸用舟艇が入れるところまで乗り上げました。それから、30センチ四方の大きな角材を2人掛かりで担いで、砂浜に並べていきました。その角材の上にコロを並べて、重量物を引っ張りました。その方法で、重量物を発電所の中まで引っ張り上げました。私は発電所の建設現場で、そのような仕事をしていしました。
大きな重量物を運び終えると、次は配管作業でした。各装置とパイプを全部繋いでいきました。日本本土から職人が来て、図面を見ながら配管作業を行うのですが、私たちは職人達の助手として作業を手伝いました。そのようにして発電所建設に携わりました。そのような作業を通して、私は機器の役割や構造について詳しくなっていきました。そして発電所が完成しましたが、当時の沖縄には発電所運転の技術者がいませんでした。発電所の完成が近づき試運転の際には、私たちはやってみるように言われて運転を任されました。そして、発電機の運転をしました。その後、運営会社の東芝の職員として本採用になりました。運が良かったとしか言いようがありません。何も知らない私たちが、発電所の運転を任されたわけですから。
発電所ができた当時、ギルバート社というアメリカの会社が米軍から発電所の管理を任されていました。それで、私たちの雇用先は発電所を建設した東芝からギルバート社に代わりました。その次に、琉球電力公社が出来ると、発電所事業はギルバート社から琉球電力公社へ引き継がれました。1953(昭和28)年4月発電所が出来た当初は、15,000キロワットの発電機が4機造られていました。次第に電力需要が高まっていき、発電機4機の電力では足りなくなりました。それで、アメリカから「ジャコナ号」という発電船がやってきて、1955(昭和30)年6月には、北谷のハンビー飛行場があった場所からジャコナ号による電力供給が始まりました。私の職場は、牧港の発電所からジャコナ号へと移りました。大変な仕事でした。
若い世代に伝えたい事
若いということは、無限の可能性があると思います。これだと決めた仕事に対して、徹底して取り組んでほしいです。私が発電所の仕事を始めた若い頃は、とにかく無我夢中でした。私は小学校までしか出ていないため、物理や化学などは充分に勉強できていませんでした。けれども、発電所は物理や化学の応用が活かされたところです。それで私は、那覇で購入した物理や化学の本を読んで勉強もしました。仕事に対しては、それくらいの熱意を持っていいと思います。自分に与えられた仕事を、徹底して突き詰めてほしいと思います。
砂川金三さんは、戦後台湾からの引き揚げ船が遭難した「栄丸事件」の生存者のひとりです。九死に一生を得た金三さんは、終戦直後の混とんとした状況の中でも、持ち前の勤勉さと努力で電気関係の技術を身につけ、戦後復興に貢献しました。
戦時中 宮古島から台湾へ渡る
私は1928(昭和3)年生まれです。実家は、宮古島の漲水港(現在の平良港)の近くでした。7名兄弟の中の私は三男で、上から5番目です。父親の職業は、「馬喰(ばくろう)」という当時では珍しい仕事でした。牛や豚など家畜の売り買いをしていて、沖縄本島との取引をしていました。それで父は、宮古島から沖縄本島まで頻繁に行き来していました。
1943(昭和18)年3月頃だったと思いますが、私は宮古島から台湾の基隆(キールン)に渡りました。当時、台湾の台北にも「逓信講習所※」(※郵便・通信の職員養成所)という機関がありました。私はそこを受験するため、基隆に行きました。けれども、逓信講習所の受験に失敗したので、ある方を通じて仕事を紹介してもらいました。
要塞司令部での勤務
私は、基隆にある日本軍の要塞司令部で働くことになりました。そこでは「小使い(用務員)」とよばれる仕事をしました。仕事の内容としては、いろいろな文書があったので、私が配属された司令部から各部隊へ文書を配達していました。軍司令部は台北にあったので、約20キロ以上の距離を自転車に乗って、文書を届けたこともありました。私は、住み込みのようにして働いていました。私を含め「小使い」は2人いました。私たちの部屋は、食堂も兼ねた大きな部屋でした。寝室は個室で、そこに寝泊まりしていました。電話番も兼ねていたので、1日おきに泊まっていました。
基隆での生活は、宮古島での生活とは比べものになりませんでした。基隆の街並みは綺麗に区画整理されていて、台湾の建物には「亭仔脚(ていしきゃく)」という建築様式があり、建物の2階部分が歩道の上まで伸びていました。雨が降っても、濡れずに歩くことができる造りになっていました。その建築様式を見て、私は感心しました。
基隆での空襲
「十・十空襲」の頃、台湾にも米軍のグラマン戦闘機が来ました。飛行機がたくさん飛んでいるのを、私は屋根に登り喜んで見ていました。最初は、友軍(日本軍)の飛行機が飛んでいるものだと思っていました。そうしていると、港の方から爆撃音が聞こえてきました。それで、これは米軍のグラマン戦闘機だと気付きました。みんな驚いて、防空壕に逃げ込みました。グラマン戦闘機は、港の船を中心に爆撃しました。民間への爆撃はありませんでした。その後、B-29爆撃機がやってきて無差別に爆撃を行い、街は全部焼けてしまいました。
基隆で終戦を迎える
1945(昭和20)年8月15日、玉音放送があるという事を聞いて、私は職場の皆と一緒に外に出て玉音放送を聞いていました。その時は、戦争に負けて良かったと思いました。当時の中学生には、「警備召集」として召集された生徒もいたので、その生徒たちは日本の敗戦が分かると大泣きしていました。兵隊たちは、それほど取り乱してはいませんでした。
終戦後、台湾から宮古島に帰る人たちは、海のそばに爆撃された基隆港の倉庫群があったので、屋根もないようなコンクリートの廃屋でしたが、宮古島へ引き揚げるまでの間はそこに滞在していました。中国大陸から進駐軍(国民党軍)が上陸することになり、その時には問題が起きないように、日本人は全員基隆港から少し離れた場所に移動するように言われたので、私たちはそこへ行きました。移動したのは、進駐軍が基隆へ上陸した日だけでした。進駐軍が通り過ぎた日の夕方には、また元の場所に戻りました。
栄丸遭難事件
終戦後、早い時期に宮古島へ引き揚げた人たちは、それぞれで船を貸し切ってその船に乗って引き揚げました。私も叔父の世話をするため、船に乗ることになりました。その船が「栄丸(さかえまる)」です。何日間か船が出るのを待っていると、船の機関長を務めた経験のある私の従兄弟が来て、船に詳しい彼はこのように言いました。栄丸は丘で野ざらしにされていた廃船寸前の船で、船の数が足りないために無理矢理使っているようなものだから、危険なので乗らない方が良いということでした。それを聞いて私は、叔父にも栄丸に乗らない方が良いと伝えました。叔父たちも、栄丸には乗らない事にしました。しかし、私たちの荷物はすでに栄丸に積んでいたので、荷物番のため仕方なく私だけは栄丸に乗りました。
案の定、栄丸はエンジンが故障してしまいました。その頃は11月で、強い北風が吹いていました。船はエンジンが止まるとどうしようも無いので、北風に流されてしまい、基隆港から出て反対側の岩だらけの海岸(磯)の近くにアンカーを下ろしました。私は船のデッキにいましたが、突然大波がきて船から海に落とされてしまいました。最終的に栄丸は、海岸に打ち上げられていました。確かな数字は覚えていませんが、乗船者数160人中、生存者は30人ほどだったと思います。無事に救助された人の中には、5、6歳ぐらいの男の子もいました。私を含め助かるかどうかは、運次第だったのではないかと思います。
岸から松明(たいまつ)を持って助けに来てくれた人たちは、私たちが海岸まで上がってくると、私たちを背負って陸まで運んでくれました。どのような小屋だったかあまり覚えていませんが、浜辺ちかくの小屋で1晩泊まりました。翌朝、助けてくれた人たちに呼ばれて、海岸に打ち上げられた遺体の片付けを手伝ってほしいといわれました。生存者の中で若くて元気な者は、遺体の片付け作業に駆り出されました。乗船者の遺体は、ほとんど海岸に打ち上げられていました。内臓が飛び出た遺体や、頭が歪んでいるような遺体もありました。見ると目を覆いたくなる遺体ばかりでした。
栄丸は30トン弱の小さな船でした。機関の故障が無かったとしても、大変な事故になっていたと思います。船の大きさに対し多くの人が乗っていたので、あの船に乗ったことはとても危険なことだったと思います。不思議なことに、私には助かった後の記憶がほとんどありません。遺体の片付けをしたことは覚えていますが、誰が私をどのように宮古島へ連れ帰ったのかは全く覚えていません。
宮古島に戻り「闇商売」の船員へ
1945(昭和20)年12月頃、私は宮古島に帰ってきました。栄丸に乗ったのが11月なので、おそらく12月だったと思います。宮古島に帰って来て見た街の様子は、空襲を受けて焼け野原のようでした。米兵はいましたが、それほど大人数ではありませんでした。宮古島の測候所に米軍が駐留していました。私は、半年ちかく米軍住宅のハウスキーパーの仕事をしました。その後は、船に乗る仕事でした。
当時、カジキ漁の「突きん棒船」がありました。私が船員になったのは、おそらくその「突きん棒船」だったと思います。与那国島で船を2隻持っている方がいたので、私はその船のうち1隻に乗って、与那国島から沖縄本島の糸満沖まで移動して、しばらくの間「闇商売」をやっていました。与那国島を出発した船は、ほとんど客や荷物が無い空船でした。沖縄本島からは、潤滑油が入ったドラム缶や、タイヤや米兵の衣服などを運び出しました。糸満では、沖渡しで荷物を積んでいました。いつも久米島経由でしたので、久米島からの積み荷もあったと思います。船主の奥さんは与那国の祖納の出身で、船主は多良間島の出身だと聞いています。奥さんが祖納の人だから、夫婦で祖納に住んでいました。鰹節工場の経営者でもありました。荷物は祖納の港に降ろしていました。与那国の好景気の時代は、もう少しあとの事です。私たちが「闇商売」をしていた頃は、景気の良さは感じませんでした。同じように「闇商売」をしている人は、そんなにいませんでした。与那国の「闇商売」が盛んになるのは、ずっと後の事です。私は4、5回航海に出て、半年ほど「闇商売」をやりました。その間、私は与那国島や宮古島で過ごしました。
その後、宮古島の商人達が設立した物産会社があり、その会社が「太平丸(たいへいまる)」という船を所有していたので、私はその船の乗組員になりました。私は太平丸に乗って、八重山から材木や薪を積んで宮古島に運んできました。当時、薪や材木のほとんどを八重山から運んでいました。石垣島の平久保からの積み込みが多かったです。その後、太平丸は廃船となり「物産丸(ぶっさんまる)」という新造船を使うようになりました。それからは、物産丸に乗るようになりました。終戦後は、沖縄本島や奄美大島そして十島村(トカラ列島)まで行きました。ある時、プラタス諸島(東沙諸島)まで、海人草(方言名:ナチョーラ)を取りに行きました。船はプラタス諸島をうっかり通り過ぎてしまい、中国の沿岸近くまで行ってしまいました。そして、私たちは外国の警備船に捕まりマカオまで連れて行かれ、そこに約6ヵ月間滞在しました。その間は、刑務所に収監されるという事ではなく、船(物産丸)だけ没収されました。船主である宮古島の物産会社は、なんとかして物産丸を取り戻そうと、競売にかけられていた物産丸をお金を払ってどうにか買い戻しました。ところが、また問題がおきて、船からはノズルなどの肝心な機械部品が取られていました。それで、私たちは部品を揃えるためにマカオに半年間もいました。
物産丸の大きさは30トンくらいで、杉の木で造られていました。宮古島から荷物を運んで行ったことはありませんが、沖縄本島を経由していたので、宮古島から客を乗せて沖縄本島で降ろしていました。それから奄美大島の名瀬や、十島村の口之島まで行きました。その頃は警察もいたと思いますが、あまり「闇商売」には干渉しませんでした。当時は国境線がありましたが、自由に往来できました。十島村の口之島や中之島まで行き、そこで材木やお米、ミカンなどを積み込みました。その後、また沖縄本島に立ち寄り、乗客がいれば沖縄本島から乗せて宮古島に帰りました。物産丸でも石垣島から材木や薪や運びました。
沖縄本島に渡り発電所の仕事へ
その物産丸を降りて、私が沖縄本島に来たのは1949(昭和24)年頃です。宮古島の先輩が浦添の牧港にある発電所建設に携わっていると聞いて、その情報を頼りに行ってみました。そこでは、宮古島出身の先輩たちが働いていました。発電所用のタービンやボイラーなどは何十トンもする重量物だったので、あの当時は道路を使って運ぶことはできませんでした。那覇港から米軍のLST(上陸用舟艇)に積んで運びました。牧港の発電所のすぐそばには砂浜があったので、上陸用舟艇が入れるところまで乗り上げました。それから、30センチ四方の大きな角材を2人掛かりで担いで、砂浜に並べていきました。その角材の上にコロを並べて、重量物を引っ張りました。その方法で、重量物を発電所の中まで引っ張り上げました。私は発電所の建設現場で、そのような仕事をしていしました。
大きな重量物を運び終えると、次は配管作業でした。各装置とパイプを全部繋いでいきました。日本本土から職人が来て、図面を見ながら配管作業を行うのですが、私たちは職人達の助手として作業を手伝いました。そのようにして発電所建設に携わりました。そのような作業を通して、私は機器の役割や構造について詳しくなっていきました。そして発電所が完成しましたが、当時の沖縄には発電所運転の技術者がいませんでした。発電所の完成が近づき試運転の際には、私たちはやってみるように言われて運転を任されました。そして、発電機の運転をしました。その後、運営会社の東芝の職員として本採用になりました。運が良かったとしか言いようがありません。何も知らない私たちが、発電所の運転を任されたわけですから。
発電所ができた当時、ギルバート社というアメリカの会社が米軍から発電所の管理を任されていました。それで、私たちの雇用先は発電所を建設した東芝からギルバート社に代わりました。その次に、琉球電力公社が出来ると、発電所事業はギルバート社から琉球電力公社へ引き継がれました。1953(昭和28)年4月発電所が出来た当初は、15,000キロワットの発電機が4機造られていました。次第に電力需要が高まっていき、発電機4機の電力では足りなくなりました。それで、アメリカから「ジャコナ号」という発電船がやってきて、1955(昭和30)年6月には、北谷のハンビー飛行場があった場所からジャコナ号による電力供給が始まりました。私の職場は、牧港の発電所からジャコナ号へと移りました。大変な仕事でした。
若い世代に伝えたい事
若いということは、無限の可能性があると思います。これだと決めた仕事に対して、徹底して取り組んでほしいです。私が発電所の仕事を始めた若い頃は、とにかく無我夢中でした。私は小学校までしか出ていないため、物理や化学などは充分に勉強できていませんでした。けれども、発電所は物理や化学の応用が活かされたところです。それで私は、那覇で購入した物理や化学の本を読んで勉強もしました。仕事に対しては、それくらいの熱意を持っていいと思います。自分に与えられた仕事を、徹底して突き詰めてほしいと思います。
砂川金三さんは、戦後台湾からの引き揚げ船が遭難した「栄丸事件」の生存者のひとりです。九死に一生を得た金三さんは、終戦直後の混とんとした状況の中でも、持ち前の勤勉さと努力で電気関係の技術を身につけ、戦後復興に貢献しました。