戦世からのあゆみ戦争体験者戦中・戦後の証言映像

アメリカの2つの顔 ~土地接収とハワイ農業研修~

しまぶくろ ぜんゆうさん

1936(昭和11)年生まれ

沖縄市出身

知花の土地接収に抗った父親

 終戦直後、ここ(現在の沖縄市知花)は米軍によって立ち入り禁止区域とされました。それでも私の父は、「自分たちの家屋敷だから入るのだ」と意義を申し立てて、破壊された自分の家を再建するため、そこに残っていた牛小屋に住んでいました。強制的ではなく、父は当然のように禁止区域に入っていました。当時は、米軍のMP(憲兵)と沖縄のCP(民間警察)がいて、知花周辺はCPが巡回していました。そのうちCPが父を守るようになり、周囲の人たちもそれなら大丈夫だろうと徐々に知花地区に入ってくるようになりました。立ち入り禁止区域は、有刺鉄線で囲まれていました。父の行動を見て周囲の人々は驚いていましたが、父は「私たちには関係ない」と言いながら、有刺鉄線なども踏みつけて立ち入り禁止区域に入っていました。

知花集落の暮らし

 当時、平坦な場所の窪地には、米軍がいろんなものを捨てていました。車の後方にゴミを積んで捨てたり、ダンプカーを使って捨てていました。ゴミ捨て場には使用済みの酸素ボンベがありました。普通ならみんなは食べ物を拾いますが、私の父は「米軍の食べ残しは絶対に食べない」と言っていたので、私たちは酸素ボンベを担いで持ち帰りました。それはとても重かったです。その酸素ボンベは、現在の公民館のような場所に持って行きました。当時は放送設備がないので、その酸素ボンベは人を集める時の鐘の代用として使いました。当時は「総会」というのがあり、他にも学生集会や青年会の集まりの時には、ボンベを叩いて知らせました。総会の知らせは、ボンベをゆっくりと7回ほど叩きました。そして青年会の集会は、3回叩きました。高校生の集会は、1回目を大きく鳴らし合計4回叩きました。非常事態には、速く叩いて知らせました。例えば、「米兵が火をつけている」とボンベを叩いて知らせると、住民は「大変だ」と言って外へ出て行きました。米兵には良い人もいましたが、悪い人もたくさんいました。米兵が悪さをしていたら、住民全員で追い払いました。
 沖縄戦では多くの日本兵や沖縄の住民が負傷しましたが、もちろん米兵にも負傷者がいました。その人たちを治療するために、当時「Bカンパン※」と呼ばれた地区に病院がありました。現在のうるま市具志川にありました。私の父は、米兵にその場所へ連れて行かれました。そして、負傷した米兵に輸血をするために、私の父は多量の血を採られ、次第に身体が弱まっていきました。私が11歳の時、父は36歳で亡くなりました。(※カンパン[compound:基地従業員宿舎等])

中部農林高校 畜産科へ進学

 私は中部農林高校に進学しました。嘉手納にあった県立農林学校は無くなり、新しく農林高校が出来たので、そこへ進学するよう周りから勧められました。戦後はいろいろな学校が出来ましたが、私は農林高校へ進学しました。そして、畜産科に進みました。なぜ畜産科に進んだかというと、私の父は牛が好きで闘牛大会にも参加していました。父は戦前に一度、全島闘牛大会で優勝したことがあります。その時の写真を父は誇らしげに飾っていましたが、その写真も戦争で無くなってしました。
 戦後の食料難で学生たちはみんな痩せ細っていたので、学校では米軍から送られた粉ミルクを飲ませていました。粉ミルク(脱脂粉乳)は、このような箱に入っていました。この粉ミルクというものは、アメリカでバターを作るときに牛乳を遠心分離機にかけて、重くて遠心分離機内の壁にぶつかる脂肪分はバターとして使い、残った牛乳のカスは豚の餌になりました。その残りカスが送られてきて、それを何も分からずに粉ミルクとしてみんな飲んでいました。畜産科の先生方はその事実を知ったので、畜産科だから本物の牛を飼った方が良いという話になり、学校で牛を飼いました。

乳牛の世話と牛乳配達

 当時、牛の値段は高かったので1頭しか買えませんでした。牛の品種は「ホルスタイン」でした。当時の一般的な牛は黒色でしたが、ホルスタインは黒と白が混ざった色でした。「ウレーヒルマシムンヤサ(珍しいね)」と皆が言っていました。大きな体で、乳も大きい牛でした。人間が手作業で乳搾りをしました。搾った牛乳はビンに入れ、それを箱に詰めてコザの街をあちらこちらに売り歩きました。あの頃は現在と違って、牛乳を自転車に乗せて胡屋(ごや)まで売りに行っていました。乳牛の世話のために、一番早い時は朝4時ぐらいに起きました。飼育していた牛は一般的な牛より体も大きく、世話をするのに時間がかかり大変でした。これらの飼育方法を教える農林高校は、すごいと思いました。

米国ハワイ州派遣実習生に応募

 「International Young Farmers Exchange 1959」という募集がありました。当然、外国へ行くお金なんてない頃でしたが、「USCAR(米国民政府)」の教育部が研修費用を出す事になり、私もその研修に応募して試験を受けました。その試験会場へ手続きに行ったとき、建物の1~2階は琉球政府で、3~4階が米国民政府だったので、私は3~4階へ行かなければなりませんでした。当時はまだ靴が十分にはなかったので、足袋(たび)を履いている人もいました。私は綺麗な下駄を履いて行きましたが、建物の中にいた守衛にどこに行くのか尋ねられました。私はUSCAR(米国民政府)の教育部に行くと答えました。すると、守衛は「そのまま行くと大変だよ」と私に忠告しました。守衛に「下駄はダメだ。靴を履きなさい」と言われました。私が持っていた切符(許可証)を守衛に見せると、守衛は自分の靴を脱いで私にその靴を履かせてくれました。それで、私はUSCAR教育部のある階に上って行くことが出来ました。ウチナーンチュにも良い人はたくさんいると思いました。
 その試験には10名ほどが受験して、合格者は6名でした。その研修の選抜試験に、私は1番目に合格しました。この研修の試験には、いろんな人が参加していました。他の受験者は、公務員など私たちより学歴のある人たちでした。役場の職員などの先輩方もいました。試験には口頭試問があり、「プライス勧告」について質問されました。それで「プライス勧告についてどう思うか」と聞かれました。受験者は3名ずつ口頭試問の試験を受けました。プライス勧告について、私は自分の思うことを全部話しました。受験者中の公務員の人たちは、「知りません」と答えを濁していました。私はその質問に、このように答えました。沖縄の土地は私たちの土地です。沖縄の言葉で言うと、ウヤファーフジ(御先祖)伝来の土地です。この沖縄の土地は、地球の裏側から来たあなた達よそ者の土地ではありません。財産(土地)というのは、ウチナーンチュ(沖縄の人)のものです。例えどのような人が来たとしても、沖縄の人は他人の財産は取りません。そのようなことを多くの人から聞いていますし、私の父もそのような考えで行動をしていました。私はそれが正しいと思い、自分の考えをそのまま答えたら合格しました。正しい意見が通るので、学問は凄いと思いました。また、USCARの教育者も偉いと思いました。
 その後、USCARの職員が車に乗って私の家まで来ました。とても大きな車だったので、隣近所の人たちは驚いて「善祐、何か悪いことをしたのか」と言っていました。USCARのアメリカ人の職員が車から下りて来たので、私がハワイに行くことを隣近所の人たちはその時に知りました。この集落で飛行機に乗った者は、私が初めてでした。私も初めて飛行機に乗ったので、初めて見た飛行機の大きさに驚きました。当時はまだ食べ物も不十分で、私たちは痩せ細っていたので、飛行機の中で客室乗務員が運んで来てくれた食べ物がとても美味しかったのを覚えています。

ハワイでの農業研修

 ハワイには、県人会のようなハワイ沖縄連合会があります。ちょうど私がハワイに行った時、(ハワイ州記念の)大きな集会がありました。そして、沖縄から来た6名の研修生のうち、その大半はマウイ島やオアフ島での研修でしたが、私だけはホノルルにいました。研修では、毎朝必ず生姜や野菜を作ってホノルルへ売りに行きました。いつも車に乗せてもらって行きました。そして、ホノルルで美味しいものを食べて帰りました。ハワイは優雅な生活ができる所だと思いました。私の専門は畜産なので、畜産を優先して研修を受けたかったのですが、そういうわけにもいきませんでした。サトウキビ栽培や野菜づくりなど、様々な研修を受けました。パイナップル栽培の研修も受けました。
 私は、琉球政府時代に「家畜人工授精師」の免許を取りました。当時の沖縄では家畜を繁殖させようとする時、例えば牛が妊娠しているかどうか、いつ精子を与えたら良いかなどを判断する際には、家畜人工受精師が牛の子宮を素手で掴まえて「あと2時間待つといい」などと判断しました。その同じ作業を、ハワイでも行っていました。沖縄の場合は素手で行うので、牛の糞が腕に着くのですが、ハワイの場合は専用の手袋がありました。それは肩まで覆うものでした。私はその手袋を見てとても気に入り、少し分けてもらうようにお願いをしました。そして、沖縄に持ち帰った手袋は今でも残っているようです。
 農民(農業従事者)は、どの国においても人間性における大事な3つの資質となる「社会性」「科学性」「指導性」、この3つの資質を持った方が良いと私は教わりました。人間として社会的に貢献すること、いい加減にするのではなく科学的に証明できるようにすること、それらを含めた3つの資質です。私が沖縄の農林高校で習ったことをハワイの農家達に話すと、みんな喜んでいました。沖縄の農林高校ではどのようにしていたのか聞かれた時には、私はハワイの人たちに「333運動」というものを教えました。「333」という数字は、「3ヵ月」「3週間」「3日」です。日にち換算で合計すると、「114日」になります。114日というのは、豚が子どもを産むまでの日数です。

沖縄に戻り営農指導員に    

 ハワイ研修後に沖縄に戻ると、農業協同組合(農協)から声をかけられ、私はそこに勤めることになりました。農協では営農指導員として働き、豚や鶏の飼い方などの指導で畜産農家を回りました。人間はお産のときに普通は1人しか産みませんが、先ほどの「333運動」のように豚が子どもを産むときには、1度の出産で8~10頭ほど産みます。そうすると、最初に産まれた子豚は、母豚の数ある乳首の中から母乳の出が良い乳首を選んで吸います。そして3日経つと、子豚それぞれが吸う乳首の場所が決まります。1番目の子豚から順に決まっていくので、10番目の子は最後になります。その結果、最初の子が良く育ち最後の子の育ちはよくありません。そのため、3日間で授乳の順を逆にします。1番小さい豚(10番目)に1番最初に母乳を選ばせます。以降、同じように母乳を選ばせていきます。そうすることで、子豚たちは同じ大きさに成長していきます。この事を畜産農家たちに指導すると、「これは間違いない。ありがとう」と喜ばれました。

若い世代に伝えたい事

 人間として誇りを持てる人生を送ってほしいと思います。人を助ける事は良いのですが、人を殺す米軍基地の手助けや知恵を貸す事はやめてほしいです。正しい事が通る世の中を取り戻すために、そして子や孫のために国民は一所懸命に闘ってほしいです。日本全国の人たちが、人を殺すことに繋がる事には協力しない事を広げていってほしいと思います。米国であっても、人の人生をねじ曲げたり人を殺すような事はやめてほしいです。現在、人を殺すために飛行機を嘉手納基地から飛ばしたり、一生懸命に基地を拡大するような事はやめてほしいです。たった一度の人生だから、みんなのために頑張ってほしいと思います。


島袋善祐さんは、自らの信念に基づき所有する軍用地の返還を求め続けている「反戦地主」の一人です。善祐さんの沖縄戦に続く戦後のさまざまな体験は、「島ぐるみ闘争」「復帰運動」など戦後沖縄の歩みとも重なります。