戦中・戦後 伊江島を見つめて
さん
1937(昭和12)年生まれ
伊江村出身
戦争激化前の伊江島
沖縄戦当時、私は7歳でした。1943(昭和18)年には、伊江島の飛行場建設が始まっていました。私が通っていた幼稚園にも、日本軍の将校が馬に乗って来たことがありました。将校を見て格好いいと思うと同時に、怖かったことを覚えています。私の家族は7名でした。両親と姉が4名、それと私です。私は家族と一緒にずっと島にいましたので、米軍が上陸した時の様子を覚えています。
避難壕での生活
1945(昭和20)年の4月13日か14日だったと思いますが、(米軍の攻撃で)茅葺きの自宅が焼けてしまいました。避難していた壕から自宅までは僅か4~5メートルしか離れていませんが、自宅が燃えている様子をただ見ているだけで、水一滴さえも掛けることができませんでした。上空には米軍の飛行機が飛んでいました。身の危険を感じて親戚が全員集まり、小さな壕に25名で避難しました。壕内では、膝を抱いて座ったまま足を伸ばすこともできませんでした。壕の中で4日間過ごしました。
その壕から南に向かって直線距離で約200メートルの所に、小さな森がありました。ある日、その森の方から今まで聞いたこともない音楽が聞こえてきました。壕の中にいても危険だと思い、私たちは壕を出て一族の墓へ避難しました。大人たちは、「墓の中は死に場所だ」「どうせ人は死んだら墓へ運ばれるのだから、墓で死ねば誰の迷惑にもならない」と言っていました。それで、墓へ移動することになりました。私たちは着の身着のまま避難していたので、食料を持って行くことも出来ませんでした。水だけは、ほんの少し一升瓶に入れて持ち歩きました。移動中に出会った日本兵に水を分けてあげると、その兵隊に全部飲まれてしまいました。水も食料も無い状況になってしまいました。
集落に行けば食料と水はあるので、墓へ避難した翌日に取りに行こうとすると、米軍が大勢いたので集落には行けませんでした。今度は反対方向の畑に行き、芋(サツマイモ)とサトウキビを10本ほど取ってきて、それらを生のままかじって食べました。戦争中は、牛や馬が家から逃げていました。この牛や馬が傷ついて、水を求めて池にたどり着くと力尽きて死んでしまっていました。それが腐れて、死骸にはウジが湧いていました。そのような池からも水を汲んできました。明け方の暗いうちに水汲みをしていたので、朝になってその水を飲もうと水入れの瓶を見ると、中にウジが4、5匹動いていました。それでもこの水を捨てることができませんでした。他に水は無かったので、ヒモを使ってウジを瓶から取り出したあと、その水を飲みました。
4月21日の夕方頃でした。いつもなら日没前まで米軍機が飛んでいますが、その日は飛行機も飛んでいませんでした。しかも、いつもは夜になると、米軍の軍艦が接近してきて艦砲射撃をしてくるのですが、その日は軍艦も見えませんでした。大人たちが墓の外に出て、「みんな出てきなさい」と言うので、私たちも墓の中から外に出ました。「あれを見てごらん」と言われてその方向を見ると、城山(ぐすくやま)の頂上に白旗が上がっていました。大人たちに「日本は負けた。戦争は終わった」と言われましたが、私たちは死ぬために墓の中に来てそこで死のうと思っていたので、戦争が終わったと言われても誰も外には出て行きませんでした。
捕虜となり収容所生活へ
そして翌4月22日の朝、何名かの米兵が墓のところにやって来ました。そして、片言の日本語で「デテコイ、デテコイ(出て来い、出て来い)」「タマハナイ、クダモノアゲル(弾はない、果物あげる)」という言葉を繰り返して、私たちに呼びかけていました。ところが、親戚の大人たちは、「ここが死に場所だよ。墓から出るな。出たら殺されるから、ここで死んだ方が極楽だよ」と言っていました。そう言われたので、誰も外へ出ていきませんでした。
そうすると、米兵達は1度引き返して、またこちらへやって来たようでした。そして墓の中にガス弾を投げ込みました。「ボン」という音とともに、白煙が墓の中に充満しました。それからが大変でした。白煙で目が見えなくなり、喉が締め付けられるように息も苦しくなりました。その場に居てもたってもいられなくなり、みんな先を争うように外へ飛び出しました。私はガスを吸い込んだので、声が出せませんでした。その後も6ヵ月間ほど、声が出ませんでした。
私たちは米軍のトラックに乗せられ、ナガラバマの捕虜収容所へ連れて行かれました。ナガラの収容所では、まず真っ裸にされました。男性、女性、子どもを問わず、ドラム缶に石油のようなものを入れて全身を消毒されました。あとで石油のような白い消毒液だと分かりましたが、その消毒液が入ったドラム缶に1人ずつ入り頭まで沈めてドラム缶から出ました。あとで大人たちから当時の話を聞くと、ドラム缶の中の消毒液にはノミやシラミが浮かび上がったそうです。ドラム缶に1人ずつ入って出たあと、浮いているノミやシラミを取り払い、少なくなった分の消毒液を継ぎ足して、捕虜になった全員が消毒されました。全身を消毒されたときは怖かったです。ところが、怖いとは言っても死ぬことは怖くありませんでした。戦争だから死ぬ覚悟はできていました。その後、私たちは、伊江島から見える慶良間諸島渡嘉敷島に移動させられました。その時、私たちは向こう(渡嘉敷島)で殺されて、どこかに捨てられるのだと思っていました。
渡嘉敷島での生活
5月のはじめ頃だったと思います。米軍のLST(戦車揚陸艦)で、伊江島の住民は何回かに分けられて渡嘉敷島へ移動させられました。渡嘉敷島では地元の住民が山に避難していたので、集落は空き家だらけでした。その空き家に伊江島の島民は収容されました。私たちが収容されたのは、瓦葺きの立派な家でした。その家に6家族が入りました。米軍が渡嘉敷島にいる間は救援物資の配給があったので、食べ物の不自由はありませんでした。しかし、人口が400~500名の渡嘉敷島に伊江島から約1,000名が移動していたので、米軍が沖縄本島に引き揚げた後、島には人数分の食料を生産できる基盤がありませんでした。田んぼは少しありましたが、畑は段々畑でした。芋はなんとか植えられましたが、芋を植えたとしても段々畑なので、芋は伊江島住民の2,3日分しか収穫できませんでした。そのため、食料の生産基盤が築けず、渡嘉敷島で生活を続けることは難しかったです。渡嘉敷島の人たちは、漁業で生活を営んでいましたが、私たちには漁業ができませんでした。伊江島の住民は、農業しか分かりませんでした。
私たち伊江島の住民が渡嘉敷島に渡ったのは5月で、島の住民が山から下りてきたのは、その後の事です。6月頃だったと思います。学校で渡嘉敷島の同級生に会ってみると、頭には刃物で斬りつけられた傷痕があったり、手足の傷痕なども生々しく残っていました。同級生に話を聞いてみると、「集団自決」で大勢の人が亡くなったけども、自分たちは生き残ったということを話していました。また、車座になって「集団自決」をしたという話も聞きました。
6月の初め頃までは山の中にグミの木の実がなっていたので、それを採ってくると家族1食分にはなりましたが、3食分までは採れませんでした。すると今度は、木の新芽を採ったり、ソテツがあでればそれも採ってきて食べました。ソテツも食べ尽くしたあとは、道端の草木などを食べました。木の新芽、草の葉っぱなど食べられるものは全部食べました。バッタも食べました。バッタを1匹でも捕まえると、足と羽をもぎ取って生のまま食べました。それから、小さいトカゲやいろんなトカゲが島にはいました。木に生息するトカゲなども捕まえて足と頭をもぎ取り、内蔵も取り出さず生のまま食べました。これが当時のタンパク源でした。
渡嘉敷島から本部町へ
1946(昭和21)年3月、私たちは渡嘉敷島から本部町に移動しました。現在の瀬底大橋があるところです。健堅という集落に移動しました。そこでもテント生活でした。テント1つに5、6世帯ずつ入り、7月まで暮らしました。そこでも米軍の配給物資がありましたが、それでも食料は足りませんでした。その頃、幸いにも近くの砂浜に米軍の物資が陸揚げされていました。当時、私は小学校2年でしたが、兄貴(先輩)たちに連れられて「戦果あげ(米軍物資の持ち帰り)」をしました。盗んだのではありません。「戦果あげ」をしたのです。物資で1番美味しかったものは、アイスクリームの粉でした。物資の箱や袋を開けるまで中身は分かりませんでした。物資は英語で書かれていて私たちには読めないので、それを開けてみて偶然にも中身がアイスクリームだった場合は、大喜びしました。それから米軍の野戦食もありました。物資を家へ持ち帰って母や姉たちに喜ばれた物は、メリケン粉(小麦粉)でした。いろんな物資を取りに2日ほど行きました。それも夜中でした。午後10時頃までは監視員がいたので、私たちは真夜中の1時~2時頃に集合したあと、先輩たちの誘導で「戦果あげ」に行きました。
学校は崎本部小学校に通っていましたが、1学期が終わって夏休みに入ると、健堅集落から移動するよう米軍からの命令が出ました。8月の夏休みに入った時期に、私たちは崎本部の具志堅集落に移動しました。今帰仁村今泊との境界にある集落です。そこに2坪ほどのテント小屋を作り、8月から翌年(1947年)の3月まで過ごしました。
伊江島への帰還と復興
伊江島に戻ったのは、1947(昭和22)年3月です。伊江島の人たちが島に帰ってくる前に、若者たちが先発隊として先に島へ戻りました。住む場所としてテント小屋を建てたり、コンセット(米軍のカマボコ型兵舎)を整備したり、住民が戻ってすぐに住めるように準備をしていました。私たちの家族は、コンセットで暮らすようになりました。伊江島では米軍の救援物資があったので、6ヵ月ほどはその配給で十分に生活が出来ました。ところが、その年の7、8月頃から配給の量が少なくなり、食料が全く足りなくなりました。畑は2年間ほど放置されていたので、畑には自生した芋やサトウキビなどがありました。その自生しているものを取って食べました。そうしているうちに、自分の畑を確認してサツマイモを植えたりしながら、貧しいなりにも何とか食いつなぐことができました。
しかし、2年間も放置しているので畑は荒れ放題でした。しかも米軍が重機で畑を踏みつぶしているので、開墾するのが大変でした。普通の畑でも大人がひと鍬では土を耕せませんでした。ましてや私たちのような小学生の力では、鍬を2~3回振ってやっと土を掘り起こせるような状態でした。当時、私たちは小学校2年生でしたが、荒地開墾をさせられました。自生した芋を掘りに行ったとき、大きく実っている芋を見つけました。その芋を掘ろうとすると、人の頭蓋骨が出てきました。私はとても驚いて、埋め戻して逃げ出しました。芋も取らずにその場から逃げ出しました。
米軍の食料倉庫には、大きなネズミがいました。これを捕まえると、皆で大喜びしました。米軍が使用した瓶があちらこちらにあったので、その瓶を割って瓶の破片でネズミを切り裂きました。草の根をむしり取って、裂いた傷口に突っ込んで吹くと、ネズミの身体が膨れ上がりました。肉と皮が別々に分かれるので、皮をはぎ取ってネズミの肉だけを持ち帰りました。ネズミの肉はとても美味しいタンパク源でした。ネズミといっても、とても大きかったです。ネズミたちは美味しい物を食べていたと思います。肉はお汁に入れたりして食べました。当時は鍋なんてなかったので、米軍の救援物資が入っている缶を鍋代わりに使いました。
伊江島での学校生活
伊江島に戻り私が小学4年生に進級するころ、それまで満足に授業を受けていなかったので、母は私に再び3年生に編入するようにと言いました。それで、私は1年遅れで小学校も中学校も卒業しました。小学校では、学校自体はコンセット校舎で再開できていましたが、台風が来るたびにコンセット校舎は吹き飛ばされました。教科書は4年生の頃から配布されました。3年生までは、先生が黒板に書いたものを写して勉強していました。当時はちゃんとしたノートもなかったので、セメント袋を適当な大きさに切って綴り、それに線を引いてノートがわりに使っていました。
米軍爆弾処理船LCT爆発事故
私が小学校4年生の頃の夏休みの時に、魚釣りから帰る途中で爆発音が聞こえたので、「また戦争が始まったのか」と思いました。雷が鳴った時など物音で驚いた時は、昔から「クワギンシャード、クワギンシャード」と言いながら桑の木の下に隠れるようにしなさいと、お年寄り達から言われていました。爆発音が聞こえた時、近くに桑の木があったのでそこに隠れました。爆発音が消えた頃に、道に戻って南の方を見ると、大きな黒い煙が立ち上っていたので原子爆弾が落ちたのかと思いました。一緒にいた4~5名の友達と分かれて自分の家に帰ると、「LCT爆発事故」が起きた事を知りました。私は爆発現場を見ていませんが、親戚などに事故の犠牲者が多かったです。
戦時中に疎開先の今帰仁で亡くなった人の遺骨を収集しに行った人たちが、伊江島に遺骨を持ち帰る時にその事故は起こりました。伊江島の船着き場には、多くの人が出迎えていました。そこで持ち帰った遺骨を見ている間に、爆弾を積んだLCT(上陸用舟艇)が爆発してしまい、出迎えの人たちが爆発事故に巻き込まれました。
小学校の建設
小学校の校舎は、私たちが5、6年生の頃にコンクリートではなく、赤瓦の校舎建築が始まりました。校舎の基礎に使ったものは、このくらいの大きさの石でした。生徒たちは登校時に石を1ずつ持ってきて、校舎の基礎部分に入れました。2ヵ月ほどの間、毎日1個ずつ石を運びました。学校からの指示で、校門では先生が待っていました。石を持ってない生徒は、取りに帰されました。当時、私たちはまだ子どもでしたが学校建築にも協力させられました。
授業は午前中だけで、午後はほとんど作業でした。小学校5、6年生は、学校周辺に木を植えたりしました。それから運動会前になると、コーラル(石灰岩)を敷いた石ころだらけの運動場だったので、そこで転んでしまうと足はいつも傷だらけになりました。裸足で走るので、足の裏には血豆が出来てしまいました。夜になると、血豆が痛くて眠れませんでした。
中学卒業後、私は伊江小学校に給仕(用務員)として1年間勤めました。あと1年続けるようにと言われ、結局2ヵ年続けました。
若い世代に伝えたい事
毎年6月、慰霊の日の前に小学校の平和学習で、私は戦争体験者として1時間ほど子どもたちに話をしています。道ばたで学校の子どもたちに出会うと、「戦争の話を聞かせてくれたおじいちゃん、ありがとうございました」と私に挨拶をしてくれます。その度に、「戦争の話をして良かった」と私は思います。とても素直な子どもたちのために、自分の体力が続く限り戦争体験を語り継ぎたいと思います。
内間亀吉さんは、長年にわたり伊江村役場の職員として村の行政運営に尽力されました。退職後は、戦中・戦後の苦難の中を生き抜いてきたご自身の体験を、地域の子どもたちに語り伝えています。
戦争激化前の伊江島
沖縄戦当時、私は7歳でした。1943(昭和18)年には、伊江島の飛行場建設が始まっていました。私が通っていた幼稚園にも、日本軍の将校が馬に乗って来たことがありました。将校を見て格好いいと思うと同時に、怖かったことを覚えています。私の家族は7名でした。両親と姉が4名、それと私です。私は家族と一緒にずっと島にいましたので、米軍が上陸した時の様子を覚えています。
避難壕での生活
1945(昭和20)年の4月13日か14日だったと思いますが、(米軍の攻撃で)茅葺きの自宅が焼けてしまいました。避難していた壕から自宅までは僅か4~5メートルしか離れていませんが、自宅が燃えている様子をただ見ているだけで、水一滴さえも掛けることができませんでした。上空には米軍の飛行機が飛んでいました。身の危険を感じて親戚が全員集まり、小さな壕に25名で避難しました。壕内では、膝を抱いて座ったまま足を伸ばすこともできませんでした。壕の中で4日間過ごしました。
その壕から南に向かって直線距離で約200メートルの所に、小さな森がありました。ある日、その森の方から今まで聞いたこともない音楽が聞こえてきました。壕の中にいても危険だと思い、私たちは壕を出て一族の墓へ避難しました。大人たちは、「墓の中は死に場所だ」「どうせ人は死んだら墓へ運ばれるのだから、墓で死ねば誰の迷惑にもならない」と言っていました。それで、墓へ移動することになりました。私たちは着の身着のまま避難していたので、食料を持って行くことも出来ませんでした。水だけは、ほんの少し一升瓶に入れて持ち歩きました。移動中に出会った日本兵に水を分けてあげると、その兵隊に全部飲まれてしまいました。水も食料も無い状況になってしまいました。
集落に行けば食料と水はあるので、墓へ避難した翌日に取りに行こうとすると、米軍が大勢いたので集落には行けませんでした。今度は反対方向の畑に行き、芋(サツマイモ)とサトウキビを10本ほど取ってきて、それらを生のままかじって食べました。戦争中は、牛や馬が家から逃げていました。この牛や馬が傷ついて、水を求めて池にたどり着くと力尽きて死んでしまっていました。それが腐れて、死骸にはウジが湧いていました。そのような池からも水を汲んできました。明け方の暗いうちに水汲みをしていたので、朝になってその水を飲もうと水入れの瓶を見ると、中にウジが4、5匹動いていました。それでもこの水を捨てることができませんでした。他に水は無かったので、ヒモを使ってウジを瓶から取り出したあと、その水を飲みました。
4月21日の夕方頃でした。いつもなら日没前まで米軍機が飛んでいますが、その日は飛行機も飛んでいませんでした。しかも、いつもは夜になると、米軍の軍艦が接近してきて艦砲射撃をしてくるのですが、その日は軍艦も見えませんでした。大人たちが墓の外に出て、「みんな出てきなさい」と言うので、私たちも墓の中から外に出ました。「あれを見てごらん」と言われてその方向を見ると、城山(ぐすくやま)の頂上に白旗が上がっていました。大人たちに「日本は負けた。戦争は終わった」と言われましたが、私たちは死ぬために墓の中に来てそこで死のうと思っていたので、戦争が終わったと言われても誰も外には出て行きませんでした。
捕虜となり収容所生活へ
そして翌4月22日の朝、何名かの米兵が墓のところにやって来ました。そして、片言の日本語で「デテコイ、デテコイ(出て来い、出て来い)」「タマハナイ、クダモノアゲル(弾はない、果物あげる)」という言葉を繰り返して、私たちに呼びかけていました。ところが、親戚の大人たちは、「ここが死に場所だよ。墓から出るな。出たら殺されるから、ここで死んだ方が極楽だよ」と言っていました。そう言われたので、誰も外へ出ていきませんでした。
そうすると、米兵達は1度引き返して、またこちらへやって来たようでした。そして墓の中にガス弾を投げ込みました。「ボン」という音とともに、白煙が墓の中に充満しました。それからが大変でした。白煙で目が見えなくなり、喉が締め付けられるように息も苦しくなりました。その場に居てもたってもいられなくなり、みんな先を争うように外へ飛び出しました。私はガスを吸い込んだので、声が出せませんでした。その後も6ヵ月間ほど、声が出ませんでした。
私たちは米軍のトラックに乗せられ、ナガラバマの捕虜収容所へ連れて行かれました。ナガラの収容所では、まず真っ裸にされました。男性、女性、子どもを問わず、ドラム缶に石油のようなものを入れて全身を消毒されました。あとで石油のような白い消毒液だと分かりましたが、その消毒液が入ったドラム缶に1人ずつ入り頭まで沈めてドラム缶から出ました。あとで大人たちから当時の話を聞くと、ドラム缶の中の消毒液にはノミやシラミが浮かび上がったそうです。ドラム缶に1人ずつ入って出たあと、浮いているノミやシラミを取り払い、少なくなった分の消毒液を継ぎ足して、捕虜になった全員が消毒されました。全身を消毒されたときは怖かったです。ところが、怖いとは言っても死ぬことは怖くありませんでした。戦争だから死ぬ覚悟はできていました。その後、私たちは、伊江島から見える慶良間諸島渡嘉敷島に移動させられました。その時、私たちは向こう(渡嘉敷島)で殺されて、どこかに捨てられるのだと思っていました。
渡嘉敷島での生活
5月のはじめ頃だったと思います。米軍のLST(戦車揚陸艦)で、伊江島の住民は何回かに分けられて渡嘉敷島へ移動させられました。渡嘉敷島では地元の住民が山に避難していたので、集落は空き家だらけでした。その空き家に伊江島の島民は収容されました。私たちが収容されたのは、瓦葺きの立派な家でした。その家に6家族が入りました。米軍が渡嘉敷島にいる間は救援物資の配給があったので、食べ物の不自由はありませんでした。しかし、人口が400~500名の渡嘉敷島に伊江島から約1,000名が移動していたので、米軍が沖縄本島に引き揚げた後、島には人数分の食料を生産できる基盤がありませんでした。田んぼは少しありましたが、畑は段々畑でした。芋はなんとか植えられましたが、芋を植えたとしても段々畑なので、芋は伊江島住民の2,3日分しか収穫できませんでした。そのため、食料の生産基盤が築けず、渡嘉敷島で生活を続けることは難しかったです。渡嘉敷島の人たちは、漁業で生活を営んでいましたが、私たちには漁業ができませんでした。伊江島の住民は、農業しか分かりませんでした。
私たち伊江島の住民が渡嘉敷島に渡ったのは5月で、島の住民が山から下りてきたのは、その後の事です。6月頃だったと思います。学校で渡嘉敷島の同級生に会ってみると、頭には刃物で斬りつけられた傷痕があったり、手足の傷痕なども生々しく残っていました。同級生に話を聞いてみると、「集団自決」で大勢の人が亡くなったけども、自分たちは生き残ったということを話していました。また、車座になって「集団自決」をしたという話も聞きました。
6月の初め頃までは山の中にグミの木の実がなっていたので、それを採ってくると家族1食分にはなりましたが、3食分までは採れませんでした。すると今度は、木の新芽を採ったり、ソテツがあでればそれも採ってきて食べました。ソテツも食べ尽くしたあとは、道端の草木などを食べました。木の新芽、草の葉っぱなど食べられるものは全部食べました。バッタも食べました。バッタを1匹でも捕まえると、足と羽をもぎ取って生のまま食べました。それから、小さいトカゲやいろんなトカゲが島にはいました。木に生息するトカゲなども捕まえて足と頭をもぎ取り、内蔵も取り出さず生のまま食べました。これが当時のタンパク源でした。
渡嘉敷島から本部町へ
1946(昭和21)年3月、私たちは渡嘉敷島から本部町に移動しました。現在の瀬底大橋があるところです。健堅という集落に移動しました。そこでもテント生活でした。テント1つに5、6世帯ずつ入り、7月まで暮らしました。そこでも米軍の配給物資がありましたが、それでも食料は足りませんでした。その頃、幸いにも近くの砂浜に米軍の物資が陸揚げされていました。当時、私は小学校2年でしたが、兄貴(先輩)たちに連れられて「戦果あげ(米軍物資の持ち帰り)」をしました。盗んだのではありません。「戦果あげ」をしたのです。物資で1番美味しかったものは、アイスクリームの粉でした。物資の箱や袋を開けるまで中身は分かりませんでした。物資は英語で書かれていて私たちには読めないので、それを開けてみて偶然にも中身がアイスクリームだった場合は、大喜びしました。それから米軍の野戦食もありました。物資を家へ持ち帰って母や姉たちに喜ばれた物は、メリケン粉(小麦粉)でした。いろんな物資を取りに2日ほど行きました。それも夜中でした。午後10時頃までは監視員がいたので、私たちは真夜中の1時~2時頃に集合したあと、先輩たちの誘導で「戦果あげ」に行きました。
学校は崎本部小学校に通っていましたが、1学期が終わって夏休みに入ると、健堅集落から移動するよう米軍からの命令が出ました。8月の夏休みに入った時期に、私たちは崎本部の具志堅集落に移動しました。今帰仁村今泊との境界にある集落です。そこに2坪ほどのテント小屋を作り、8月から翌年(1947年)の3月まで過ごしました。
伊江島への帰還と復興
伊江島に戻ったのは、1947(昭和22)年3月です。伊江島の人たちが島に帰ってくる前に、若者たちが先発隊として先に島へ戻りました。住む場所としてテント小屋を建てたり、コンセット(米軍のカマボコ型兵舎)を整備したり、住民が戻ってすぐに住めるように準備をしていました。私たちの家族は、コンセットで暮らすようになりました。伊江島では米軍の救援物資があったので、6ヵ月ほどはその配給で十分に生活が出来ました。ところが、その年の7、8月頃から配給の量が少なくなり、食料が全く足りなくなりました。畑は2年間ほど放置されていたので、畑には自生した芋やサトウキビなどがありました。その自生しているものを取って食べました。そうしているうちに、自分の畑を確認してサツマイモを植えたりしながら、貧しいなりにも何とか食いつなぐことができました。
しかし、2年間も放置しているので畑は荒れ放題でした。しかも米軍が重機で畑を踏みつぶしているので、開墾するのが大変でした。普通の畑でも大人がひと鍬では土を耕せませんでした。ましてや私たちのような小学生の力では、鍬を2~3回振ってやっと土を掘り起こせるような状態でした。当時、私たちは小学校2年生でしたが、荒地開墾をさせられました。自生した芋を掘りに行ったとき、大きく実っている芋を見つけました。その芋を掘ろうとすると、人の頭蓋骨が出てきました。私はとても驚いて、埋め戻して逃げ出しました。芋も取らずにその場から逃げ出しました。
米軍の食料倉庫には、大きなネズミがいました。これを捕まえると、皆で大喜びしました。米軍が使用した瓶があちらこちらにあったので、その瓶を割って瓶の破片でネズミを切り裂きました。草の根をむしり取って、裂いた傷口に突っ込んで吹くと、ネズミの身体が膨れ上がりました。肉と皮が別々に分かれるので、皮をはぎ取ってネズミの肉だけを持ち帰りました。ネズミの肉はとても美味しいタンパク源でした。ネズミといっても、とても大きかったです。ネズミたちは美味しい物を食べていたと思います。肉はお汁に入れたりして食べました。当時は鍋なんてなかったので、米軍の救援物資が入っている缶を鍋代わりに使いました。
伊江島での学校生活
伊江島に戻り私が小学4年生に進級するころ、それまで満足に授業を受けていなかったので、母は私に再び3年生に編入するようにと言いました。それで、私は1年遅れで小学校も中学校も卒業しました。小学校では、学校自体はコンセット校舎で再開できていましたが、台風が来るたびにコンセット校舎は吹き飛ばされました。教科書は4年生の頃から配布されました。3年生までは、先生が黒板に書いたものを写して勉強していました。当時はちゃんとしたノートもなかったので、セメント袋を適当な大きさに切って綴り、それに線を引いてノートがわりに使っていました。
米軍爆弾処理船LCT爆発事故
私が小学校4年生の頃の夏休みの時に、魚釣りから帰る途中で爆発音が聞こえたので、「また戦争が始まったのか」と思いました。雷が鳴った時など物音で驚いた時は、昔から「クワギンシャード、クワギンシャード」と言いながら桑の木の下に隠れるようにしなさいと、お年寄り達から言われていました。爆発音が聞こえた時、近くに桑の木があったのでそこに隠れました。爆発音が消えた頃に、道に戻って南の方を見ると、大きな黒い煙が立ち上っていたので原子爆弾が落ちたのかと思いました。一緒にいた4~5名の友達と分かれて自分の家に帰ると、「LCT爆発事故」が起きた事を知りました。私は爆発現場を見ていませんが、親戚などに事故の犠牲者が多かったです。
戦時中に疎開先の今帰仁で亡くなった人の遺骨を収集しに行った人たちが、伊江島に遺骨を持ち帰る時にその事故は起こりました。伊江島の船着き場には、多くの人が出迎えていました。そこで持ち帰った遺骨を見ている間に、爆弾を積んだLCT(上陸用舟艇)が爆発してしまい、出迎えの人たちが爆発事故に巻き込まれました。
小学校の建設
小学校の校舎は、私たちが5、6年生の頃にコンクリートではなく、赤瓦の校舎建築が始まりました。校舎の基礎に使ったものは、このくらいの大きさの石でした。生徒たちは登校時に石を1ずつ持ってきて、校舎の基礎部分に入れました。2ヵ月ほどの間、毎日1個ずつ石を運びました。学校からの指示で、校門では先生が待っていました。石を持ってない生徒は、取りに帰されました。当時、私たちはまだ子どもでしたが学校建築にも協力させられました。
授業は午前中だけで、午後はほとんど作業でした。小学校5、6年生は、学校周辺に木を植えたりしました。それから運動会前になると、コーラル(石灰岩)を敷いた石ころだらけの運動場だったので、そこで転んでしまうと足はいつも傷だらけになりました。裸足で走るので、足の裏には血豆が出来てしまいました。夜になると、血豆が痛くて眠れませんでした。
中学卒業後、私は伊江小学校に給仕(用務員)として1年間勤めました。あと1年続けるようにと言われ、結局2ヵ年続けました。
若い世代に伝えたい事
毎年6月、慰霊の日の前に小学校の平和学習で、私は戦争体験者として1時間ほど子どもたちに話をしています。道ばたで学校の子どもたちに出会うと、「戦争の話を聞かせてくれたおじいちゃん、ありがとうございました」と私に挨拶をしてくれます。その度に、「戦争の話をして良かった」と私は思います。とても素直な子どもたちのために、自分の体力が続く限り戦争体験を語り継ぎたいと思います。
内間亀吉さんは、長年にわたり伊江村役場の職員として村の行政運営に尽力されました。退職後は、戦中・戦後の苦難の中を生き抜いてきたご自身の体験を、地域の子どもたちに語り伝えています。