伊江島・傷だらけのシマ
さん
1937(昭和12)年生まれ
伊江村出身
戦争激化前の伊江島
沖縄戦の頃、私は国民学校1年生で、当時は7歳でした。入学したあと、机に向かって勉強した記憶はあまりありません。ほとんど、防空壕への避難訓練や兵士の軍事訓練の見学などをした記憶しかありません。
1944(昭和19)年の10月には「十・十空襲」がありました。開戦の直前に、沖縄本島から伊江島飛行場建設応援隊として徴集がかかり、馬や馬車まで集められました。近くの今帰仁村や本部町からは、馬車や馬を全部集められました。本島の中南部からも応援隊がやってきました。私の家にも、今帰仁から来た応援隊の人が住むようになりました。その後、私達が今帰仁へ避難した時には、その人の家でお世話になりました。
今帰仁村へ避難
そして「十・十空襲」のあと、軍の命令によって伊江島の東海岸にある現在のビーチあたりから、夜中に日本軍の上陸用舟艇で海を渡って本部の浜崎まで行きました。本部から今帰仁まで徒歩で移動し、到着したのは朝の6時頃でした。その時、私は一睡もしませんでした。私は7歳になっていたので、荷物を担いで歩くことはできましたが、弟は当時2歳でした。弟は、お湯を入れた小さな水筒を首からさげて、大人と一緒に歩き続けました。途中で弟が泣き出すと、私たちは30分休んでまた歩き出しました。そのため、私たちは他の家族より移動が遅れましたが、両親は弟を背負う余裕もありませんでした。母も父も持てるだけの荷物を持っていました。父は、戦争前に右腕の肘から下をなくしていました。父は手が不自由だったので、島に残されずに避難できたので命は助かりました。
避難先は今帰仁村の与那嶺でした。そこにいたのは数日間で、長居はしませんでした。朝早く起きると呉我山(ごがやま)に避難して、日没後に与那嶺に戻るという、毎日それの繰り返しでした。1番印象的だったのは、避難先の屋敷内に大きなガジュマルの木がありました。そのガジュマルの木の上に登って伊江島の方向を見ると、伊江島が毎日真っ赤に燃えていました。それを見ると、子どもながらにも「自分の家も燃えているのだろうな」と思いました。「隣近所の家も燃えて、何軒ぐらい残っているのかな」と、そのように島への想いが募りました。それが印象的でした。
捕虜になり名護の収容所へ
捕虜になった日は、「今日は何の知らせも無いので家にいてもよい」という指示を受け、山へ避難せずに家でくつろいでいました。すると昼の12時頃、米軍が上陸したので山ではなく海岸にすぐ避難するよう指示が出ました。それから大慌てで全員で海岸へ避難しました。そして、海岸の上のソテツ林の中に私たちは隠れました。そこで全員が米軍の捕虜になり、名護の大浦崎収容所に連れて行かれました。大浦崎に1~2ヵ月ほど仮住まいしていました。それから、久志村(現在の名護市久志)に米軍が準備している施設に島民は収容され、その後は、丸2年間収容生活が続きました。当時、そこには2,000~3,000人が収容されていました。
伊江島住民の収容先
そして、島に残り捕虜になった伊江島の島民約2,000人は、慶良間諸島に収容されました。慶良間諸島に収容された島民たちは、数ヵ月後には、久志村の収容所へ合流する島民と本部町へ合流する島民に分かれました。2年間収容されている間に行政も始まり、久志には伊江村役場が創設されました。収容中には火災も起こりました。私の住んでいた所も焼けてしまい、その時は着の身着のまま逃げました。とにかく、収容生活は大変でした。
食料難について
収容生活での問題は、何よりも食料不足でした。久志の畑から少しでも芋を取ろうとすると、すぐに捕まえられました。そこには監視する人がたくさんいました。畑に入って、カズラの葉を取ることもできませんでした。田んぼのあぜ道を歩くだけでもすぐ睨まれました。それで、道端に生えている野草の中から食べられそうなものを選んで、採って食べました。米軍から配給される野戦食1箱を、3日かけて食べました。私の家族では、母と弟が栄養失調で亡くなる寸前でした。私は父と一緒に、食料としてカエルを捕りに行きましたが、40、50匹捕っても1食分にもなりませんでした。腿などの食べられる部分以外は捨ててしまうので、カエルだけでは食料の足しにはなりませんでした。
あるお婆さんから、家に住むネズミを方言で「ヤーボー」といいますが、「ヤーボーを捕まえて食べさせなさい」と教えられました。「ヤーボー」は薪の下や草むらなどにいたので、すぐに手づかみで何匹でも捕ることができました。しかも、ヤーボーは体も大きいのです。カマス(麻袋)の半分ほどにヤーボーを捕ってきて、教えてくれたお婆さんに料理してもらいました。お婆さんにもお裾分けをして、みんなで美味しく食べました。このようにして、ようやく生き延びることができました。
伊江島への帰還と復興
1947年3月、2年ぶりに伊江島へ帰れることになり、島民は皆大喜びしました。そして、伊江島に帰る船に乗り込み、大きな夢を持って帰ってきましたが、島に上陸し1歩踏み込むと視線の先には住んでいた頃の面影はなく、住宅1軒、木1本さえも何も残っていませんでした。ただ視界に入ってくるのは、米軍の軍用車両でした。コーラル(石灰岩)で敷きならされている広場を、米軍の車両が往来している様子それだけが目に付いて、どこかの米軍基地の中に来たような、自分たちの島ではないような錯覚を起こすほどでした。ショックのあまり声を失ったという人の話も、よく聞かされました。自分の住んでいた家が何処にあったのかさえ、分からない状態でした。
現在の伊江小学校の東側に、米軍が準備していたコンセット(米軍のカマボコ型兵舎)やテントがありました。全島民はまたそこで共同生活をしなければなりませんでした。共同生活は1ヵ年近く続きました。そこから自分の家屋敷を探しましたが、建物は1軒も残っていませんでした。豚小屋1つすら何も残っていませんでした。帰って来ると、まず掘っ建て小屋を建てました。小屋を建てるために、屋敷の整備から始めました。屋敷が焼け残っただけならまだしも、我が家は戦車などで踏み潰されていました。屋根瓦などがいくつか残っているだけでした。後片付けしていると、屋敷跡から出てきたのは、頭蓋骨などの白骨化した遺体とハブでした。当時の方々は、ハブなんか怖がっていませんでした。ハブを殺そうともしないで、何とか1日でも1分でも早く片付けて家を建てたいと思っていました。だから、枯れたり焼け残っているガジュマルやフクギの木などがあれば、それを倒して掘っ建て小屋を建てました。
伊江島の戦没者は何千人もいます。こんな小さな島で、これだけの人が亡くなったわけです。そして戦後は食料難ですから、畑を探すとカズラ(芋の葉)が青々と生い茂っていました。その下には大きな芋があるのではないかと期待して、木の棒などで掘ってみると、人の頭部や骨などが出てきました。戦死者の遺体が養分となって、カズラが繁茂していました。それで、ドラム缶を10缶並べて遺骨をその中に入れました。収骨場から近い場合は、自分で遺骨を持って行き、遠い場合は、当時は車も馬車もありませんので、遺骨をそのまま置いておきました。その遺骨は、後で村役場の人が集めに来ました。全島民が伊江島に帰る数ヵ月前に、100名ほどの青年たちが集められ、島内の片付けのために先発隊として派遣されていました。彼らが行った作業は、人の骨拾いだけでした。他のことは何もできなかったという話を、後で聞きました。
米軍爆弾処理船 LCT爆発事故
私が11歳の時です。小学校5年の夏休みでした。父と一緒に本部まで行って、船で伊江島に帰りました。本部に1泊する予定でしたが、日帰りする事になったので、弁当も食べずに空腹のまま船に乗り込みました。伊江島に到着して、すぐに弁当を食べようとしましたが、爆弾を積んだ米軍車両が何台も往来し、波止場には砂煙が舞い上がっていました。私は、「ここで食事することはできない」と思いました。のども乾いていたので、弁当を包み直して、港から1番近い住宅の台所を借りて柄杓で水を飲もうとしました。その瞬間、耳が張り裂けるような物凄い爆音と共に、辺りが真っ暗になりました。しばらくすると明るくなったので、周囲を見渡すと人々は右往左往し、わめき声が聞こえたりと大変な状況になっていました。
そのような中、私は急いで家に向かいました。そして家に着くと、家にいた母は私を見て大変驚いていました。母は私に「なぜ日帰りしたのか」と聞いたので、私は事情を説明しました。母はさらに「父はどうしたのか」と尋ねましたが、私は「分からない」と答えました。実際に、父の安否は分かりませんでした。気が付くと、私は柄杓を握りしめたままでした。私は恐怖のあまり、柄杓を手から離すことができませんでした。母は柄杓を離そうと、私の指をほどきながら水を飲んだ場所を尋ねましたが、私は何も覚えていませんでした。すると、母は父が死んだものだと思い込みました。私が家に帰る前に、連絡船の客は船もろとも全員亡くなったらしいという話を母は聞いていたそうです。連絡船は戻ってきて、息子は無事だが夫はいない。夫は完全に死んだものと思い、母はすぐに父を探すよう親戚に手配しました。そして、父を探しに皆で港に戻りました。
あの時の光景は、もう何と言えばいいのか…。普段は太陽に照らされ、白くて綺麗な砂浜が、真っ黒になっていました。LCT(上陸用舟艇)や爆弾の破片が散乱して、本当にパニック状態でした。何というか、生き地獄のようでした。人間の遺体ということは確認できますが、誰の遺体なのかそれ以上のことは分かりませんでした。私の父は、戦争の前に右手を失っていました。5~6名いた親戚の中には父の姉(伯母)がいました。その伯母さんが覗き込むようにして右手のない遺体を確認し、「この遺体の右手部分はもとからないように見えるから、弟のものと同じだ。これは弟に間違いない」と言いました。伯母さんがそう言ったので、親戚は全員、父が死んだものと思い号泣していました。私は父が死んだという実感がなく、ただ呆然と立ちすくんでいました。しばらくすると、後ろの方から「清徳生きていたのか」と大きな声で怒鳴られたので、誰の声かと思って振り返ると、それは父でした。死んだものと思っていた父が生きていました。ドラマみたいな“死と生の逆転劇”がありました。ですが、私の親戚内では父のいとこが亡くなりました。同じ日に、同じ船に乗っていたのです。
爆発事故の翌日は、なお酷い状況でした。波止場にはまだ多くの遺体がありましたし、海からも遺体が引き揚げられました。誰の遺体なのか、身元は分かりませんでした。青年団や消防団などが一斉に駆り出されて、遺体探しや後片付けなどをやっていました。その側では、まだ帰って来ない家族を捜している人達が、帰るはずだった家族の名前を呼んでいたり、泣きわめいている人たちも大勢いました。爆発事故の翌日まで、本当に地獄のようでした。
伊江島の苦難の歴史
とにかく伊江島の人々は戦争で痛めつけられ、そして収容生活の苦しみや難民生活に耐えてきました。心や身体の疲労を癒す余裕は全くありませんでした。人々は心身ともに疲労困ぱいの状況の中で、さらに自分自身にムチを打って、生きるために何とか廃墟の中から立ち上がりました。昼夜を分かたず、一生懸命努力しているさなかに起きたのがこの事故でした。それが米軍爆弾処理船LCT爆発事故です。「努力すれば何とか生きていける」と、人々が夢も笑顔も少しずつ取り戻しつつあるそんな時に、この事故に遭遇し追い打ちをかけられたわけです。特に事故の遺族や島民の中には、生きる術もなく路頭に迷う人も大勢いました。事故後はそのような状況でした。それでも生きていかなければなりません。毎日、その日の生活を何とかしなければならず、生きるために島民は立ち上がりました。
そして、その事故からまだ5年しか経っていない1953(昭和28)年、米軍が真謝集落の住民に対し立ち退きを通告しました。米軍による強制立ち退きに対し、阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんを中心とする「土地を守る会」の皆さんが、米軍の土地接収に対する抵抗のため、沖縄を縦断する「乞食行進」 を行いました。そして、その後はハンガーストライキも行いました。いくら反対運動を行っても、米軍によって住民は強制的に立ち退きをさせられました。そして1~2年後には、米軍の射撃演習が始まり、真謝と西崎の集落は米軍の演習に苦しめられました。
若い世代に伝えたい事
伊江島の歴史は、戦中から戦後にかけて傷だらけの歴史です。傷だらけの苦難な歴史を島民は歩んできました。伊江村の基地問題を抜きにして、戦後の伊江島の歴史を語ることはできません。「LCT爆発事故」を抜きにして、伊江島の歴史を語ることはできません。収容所の問題を抜きにして、伊江島の歴史を語ることはできません。すべて生き地獄を見てきた島の人々の体験なのです。だから、島の歴史を振り返る時、島の人々の思いを含め、これからの若い世代、次の世代を担う若者たちに「伊江島はこうだった」という真実を歴史としてしっかりと伝えていかなければなりません。その上で、この離島という立地条件の悪い場所でも生きていく術を見つけて努力してもらいたいと思っています。
島袋清徳さんは、伊江村役場に就職し1989年から2005年にかけて16年間、伊江村長を務めるなど、長年にわたり伊江村の行政に携わりました。
戦争激化前の伊江島
沖縄戦の頃、私は国民学校1年生で、当時は7歳でした。入学したあと、机に向かって勉強した記憶はあまりありません。ほとんど、防空壕への避難訓練や兵士の軍事訓練の見学などをした記憶しかありません。
1944(昭和19)年の10月には「十・十空襲」がありました。開戦の直前に、沖縄本島から伊江島飛行場建設応援隊として徴集がかかり、馬や馬車まで集められました。近くの今帰仁村や本部町からは、馬車や馬を全部集められました。本島の中南部からも応援隊がやってきました。私の家にも、今帰仁から来た応援隊の人が住むようになりました。その後、私達が今帰仁へ避難した時には、その人の家でお世話になりました。
今帰仁村へ避難
そして「十・十空襲」のあと、軍の命令によって伊江島の東海岸にある現在のビーチあたりから、夜中に日本軍の上陸用舟艇で海を渡って本部の浜崎まで行きました。本部から今帰仁まで徒歩で移動し、到着したのは朝の6時頃でした。その時、私は一睡もしませんでした。私は7歳になっていたので、荷物を担いで歩くことはできましたが、弟は当時2歳でした。弟は、お湯を入れた小さな水筒を首からさげて、大人と一緒に歩き続けました。途中で弟が泣き出すと、私たちは30分休んでまた歩き出しました。そのため、私たちは他の家族より移動が遅れましたが、両親は弟を背負う余裕もありませんでした。母も父も持てるだけの荷物を持っていました。父は、戦争前に右腕の肘から下をなくしていました。父は手が不自由だったので、島に残されずに避難できたので命は助かりました。
避難先は今帰仁村の与那嶺でした。そこにいたのは数日間で、長居はしませんでした。朝早く起きると呉我山(ごがやま)に避難して、日没後に与那嶺に戻るという、毎日それの繰り返しでした。1番印象的だったのは、避難先の屋敷内に大きなガジュマルの木がありました。そのガジュマルの木の上に登って伊江島の方向を見ると、伊江島が毎日真っ赤に燃えていました。それを見ると、子どもながらにも「自分の家も燃えているのだろうな」と思いました。「隣近所の家も燃えて、何軒ぐらい残っているのかな」と、そのように島への想いが募りました。それが印象的でした。
捕虜になり名護の収容所へ
捕虜になった日は、「今日は何の知らせも無いので家にいてもよい」という指示を受け、山へ避難せずに家でくつろいでいました。すると昼の12時頃、米軍が上陸したので山ではなく海岸にすぐ避難するよう指示が出ました。それから大慌てで全員で海岸へ避難しました。そして、海岸の上のソテツ林の中に私たちは隠れました。そこで全員が米軍の捕虜になり、名護の大浦崎収容所に連れて行かれました。大浦崎に1~2ヵ月ほど仮住まいしていました。それから、久志村(現在の名護市久志)に米軍が準備している施設に島民は収容され、その後は、丸2年間収容生活が続きました。当時、そこには2,000~3,000人が収容されていました。
伊江島住民の収容先
そして、島に残り捕虜になった伊江島の島民約2,000人は、慶良間諸島に収容されました。慶良間諸島に収容された島民たちは、数ヵ月後には、久志村の収容所へ合流する島民と本部町へ合流する島民に分かれました。2年間収容されている間に行政も始まり、久志には伊江村役場が創設されました。収容中には火災も起こりました。私の住んでいた所も焼けてしまい、その時は着の身着のまま逃げました。とにかく、収容生活は大変でした。
食料難について
収容生活での問題は、何よりも食料不足でした。久志の畑から少しでも芋を取ろうとすると、すぐに捕まえられました。そこには監視する人がたくさんいました。畑に入って、カズラの葉を取ることもできませんでした。田んぼのあぜ道を歩くだけでもすぐ睨まれました。それで、道端に生えている野草の中から食べられそうなものを選んで、採って食べました。米軍から配給される野戦食1箱を、3日かけて食べました。私の家族では、母と弟が栄養失調で亡くなる寸前でした。私は父と一緒に、食料としてカエルを捕りに行きましたが、40、50匹捕っても1食分にもなりませんでした。腿などの食べられる部分以外は捨ててしまうので、カエルだけでは食料の足しにはなりませんでした。
あるお婆さんから、家に住むネズミを方言で「ヤーボー」といいますが、「ヤーボーを捕まえて食べさせなさい」と教えられました。「ヤーボー」は薪の下や草むらなどにいたので、すぐに手づかみで何匹でも捕ることができました。しかも、ヤーボーは体も大きいのです。カマス(麻袋)の半分ほどにヤーボーを捕ってきて、教えてくれたお婆さんに料理してもらいました。お婆さんにもお裾分けをして、みんなで美味しく食べました。このようにして、ようやく生き延びることができました。
伊江島への帰還と復興
1947年3月、2年ぶりに伊江島へ帰れることになり、島民は皆大喜びしました。そして、伊江島に帰る船に乗り込み、大きな夢を持って帰ってきましたが、島に上陸し1歩踏み込むと視線の先には住んでいた頃の面影はなく、住宅1軒、木1本さえも何も残っていませんでした。ただ視界に入ってくるのは、米軍の軍用車両でした。コーラル(石灰岩)で敷きならされている広場を、米軍の車両が往来している様子それだけが目に付いて、どこかの米軍基地の中に来たような、自分たちの島ではないような錯覚を起こすほどでした。ショックのあまり声を失ったという人の話も、よく聞かされました。自分の住んでいた家が何処にあったのかさえ、分からない状態でした。
現在の伊江小学校の東側に、米軍が準備していたコンセット(米軍のカマボコ型兵舎)やテントがありました。全島民はまたそこで共同生活をしなければなりませんでした。共同生活は1ヵ年近く続きました。そこから自分の家屋敷を探しましたが、建物は1軒も残っていませんでした。豚小屋1つすら何も残っていませんでした。帰って来ると、まず掘っ建て小屋を建てました。小屋を建てるために、屋敷の整備から始めました。屋敷が焼け残っただけならまだしも、我が家は戦車などで踏み潰されていました。屋根瓦などがいくつか残っているだけでした。後片付けしていると、屋敷跡から出てきたのは、頭蓋骨などの白骨化した遺体とハブでした。当時の方々は、ハブなんか怖がっていませんでした。ハブを殺そうともしないで、何とか1日でも1分でも早く片付けて家を建てたいと思っていました。だから、枯れたり焼け残っているガジュマルやフクギの木などがあれば、それを倒して掘っ建て小屋を建てました。
伊江島の戦没者は何千人もいます。こんな小さな島で、これだけの人が亡くなったわけです。そして戦後は食料難ですから、畑を探すとカズラ(芋の葉)が青々と生い茂っていました。その下には大きな芋があるのではないかと期待して、木の棒などで掘ってみると、人の頭部や骨などが出てきました。戦死者の遺体が養分となって、カズラが繁茂していました。それで、ドラム缶を10缶並べて遺骨をその中に入れました。収骨場から近い場合は、自分で遺骨を持って行き、遠い場合は、当時は車も馬車もありませんので、遺骨をそのまま置いておきました。その遺骨は、後で村役場の人が集めに来ました。全島民が伊江島に帰る数ヵ月前に、100名ほどの青年たちが集められ、島内の片付けのために先発隊として派遣されていました。彼らが行った作業は、人の骨拾いだけでした。他のことは何もできなかったという話を、後で聞きました。
米軍爆弾処理船 LCT爆発事故
私が11歳の時です。小学校5年の夏休みでした。父と一緒に本部まで行って、船で伊江島に帰りました。本部に1泊する予定でしたが、日帰りする事になったので、弁当も食べずに空腹のまま船に乗り込みました。伊江島に到着して、すぐに弁当を食べようとしましたが、爆弾を積んだ米軍車両が何台も往来し、波止場には砂煙が舞い上がっていました。私は、「ここで食事することはできない」と思いました。のども乾いていたので、弁当を包み直して、港から1番近い住宅の台所を借りて柄杓で水を飲もうとしました。その瞬間、耳が張り裂けるような物凄い爆音と共に、辺りが真っ暗になりました。しばらくすると明るくなったので、周囲を見渡すと人々は右往左往し、わめき声が聞こえたりと大変な状況になっていました。
そのような中、私は急いで家に向かいました。そして家に着くと、家にいた母は私を見て大変驚いていました。母は私に「なぜ日帰りしたのか」と聞いたので、私は事情を説明しました。母はさらに「父はどうしたのか」と尋ねましたが、私は「分からない」と答えました。実際に、父の安否は分かりませんでした。気が付くと、私は柄杓を握りしめたままでした。私は恐怖のあまり、柄杓を手から離すことができませんでした。母は柄杓を離そうと、私の指をほどきながら水を飲んだ場所を尋ねましたが、私は何も覚えていませんでした。すると、母は父が死んだものだと思い込みました。私が家に帰る前に、連絡船の客は船もろとも全員亡くなったらしいという話を母は聞いていたそうです。連絡船は戻ってきて、息子は無事だが夫はいない。夫は完全に死んだものと思い、母はすぐに父を探すよう親戚に手配しました。そして、父を探しに皆で港に戻りました。
あの時の光景は、もう何と言えばいいのか…。普段は太陽に照らされ、白くて綺麗な砂浜が、真っ黒になっていました。LCT(上陸用舟艇)や爆弾の破片が散乱して、本当にパニック状態でした。何というか、生き地獄のようでした。人間の遺体ということは確認できますが、誰の遺体なのかそれ以上のことは分かりませんでした。私の父は、戦争の前に右手を失っていました。5~6名いた親戚の中には父の姉(伯母)がいました。その伯母さんが覗き込むようにして右手のない遺体を確認し、「この遺体の右手部分はもとからないように見えるから、弟のものと同じだ。これは弟に間違いない」と言いました。伯母さんがそう言ったので、親戚は全員、父が死んだものと思い号泣していました。私は父が死んだという実感がなく、ただ呆然と立ちすくんでいました。しばらくすると、後ろの方から「清徳生きていたのか」と大きな声で怒鳴られたので、誰の声かと思って振り返ると、それは父でした。死んだものと思っていた父が生きていました。ドラマみたいな“死と生の逆転劇”がありました。ですが、私の親戚内では父のいとこが亡くなりました。同じ日に、同じ船に乗っていたのです。
爆発事故の翌日は、なお酷い状況でした。波止場にはまだ多くの遺体がありましたし、海からも遺体が引き揚げられました。誰の遺体なのか、身元は分かりませんでした。青年団や消防団などが一斉に駆り出されて、遺体探しや後片付けなどをやっていました。その側では、まだ帰って来ない家族を捜している人達が、帰るはずだった家族の名前を呼んでいたり、泣きわめいている人たちも大勢いました。爆発事故の翌日まで、本当に地獄のようでした。
伊江島の苦難の歴史
とにかく伊江島の人々は戦争で痛めつけられ、そして収容生活の苦しみや難民生活に耐えてきました。心や身体の疲労を癒す余裕は全くありませんでした。人々は心身ともに疲労困ぱいの状況の中で、さらに自分自身にムチを打って、生きるために何とか廃墟の中から立ち上がりました。昼夜を分かたず、一生懸命努力しているさなかに起きたのがこの事故でした。それが米軍爆弾処理船LCT爆発事故です。「努力すれば何とか生きていける」と、人々が夢も笑顔も少しずつ取り戻しつつあるそんな時に、この事故に遭遇し追い打ちをかけられたわけです。特に事故の遺族や島民の中には、生きる術もなく路頭に迷う人も大勢いました。事故後はそのような状況でした。それでも生きていかなければなりません。毎日、その日の生活を何とかしなければならず、生きるために島民は立ち上がりました。
そして、その事故からまだ5年しか経っていない1953(昭和28)年、米軍が真謝集落の住民に対し立ち退きを通告しました。米軍による強制立ち退きに対し、阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんを中心とする「土地を守る会」の皆さんが、米軍の土地接収に対する抵抗のため、沖縄を縦断する「乞食行進」 を行いました。そして、その後はハンガーストライキも行いました。いくら反対運動を行っても、米軍によって住民は強制的に立ち退きをさせられました。そして1~2年後には、米軍の射撃演習が始まり、真謝と西崎の集落は米軍の演習に苦しめられました。
若い世代に伝えたい事
伊江島の歴史は、戦中から戦後にかけて傷だらけの歴史です。傷だらけの苦難な歴史を島民は歩んできました。伊江村の基地問題を抜きにして、戦後の伊江島の歴史を語ることはできません。「LCT爆発事故」を抜きにして、伊江島の歴史を語ることはできません。収容所の問題を抜きにして、伊江島の歴史を語ることはできません。すべて生き地獄を見てきた島の人々の体験なのです。だから、島の歴史を振り返る時、島の人々の思いを含め、これからの若い世代、次の世代を担う若者たちに「伊江島はこうだった」という真実を歴史としてしっかりと伝えていかなければなりません。その上で、この離島という立地条件の悪い場所でも生きていく術を見つけて努力してもらいたいと思っています。
島袋清徳さんは、伊江村役場に就職し1989年から2005年にかけて16年間、伊江村長を務めるなど、長年にわたり伊江村の行政に携わりました。